×

社説・コラム

『想』 松田斉(まつだ・せい) 長崎の原爆写真

 長崎で被爆写真の検証作業に携わって15年になる。被爆直後の被災地を撮影した写真の撮影場所、内容、爆心地からの距離などをデータ化する作業だ。

 長崎の場合、撮影者は在京の報道機関や調査関係者、米軍によるものが大半で、現地に不案内な状況で撮影された写真は、年月がたつと撮影者自身にも場所が不明になるものがある。

 1979年、在京の平和団体から依頼を受け、長崎の被爆者数人が手弁当で検証に取り組んだ。現在、長崎平和推進協会に所属する写真資料調査部会となり、これまで40年余りで検証した写真は約4千枚に上る。

 私は2007年に参加した。17年、初代メンバー最後の1人が高齢を理由に引退。私が責任者となった。現在は週1回、9人で作業をしている。この5年間は、長崎市から業務委託を受け、長崎原爆資料館が被爆70年に際し米国立公文書館で収集した約3千枚を検証した。

 対象は基本的に焼け跡の写真なので、構造物、背景の山容などから手掛かりを探す地道な作業となる。広島と異なり、長崎は爆心地がやや郊外だったため、特徴のある大型建築などが少ない。場所や方角によっては難易度が高い。すぐに判明するものもあるが、同一の場所を別角度から撮った写真を発見するまで7年かかったものもある。

 私は幼少時から広島、長崎の原爆被災に関心があったが、それは他界した父母の影響が大きい。長崎出身の父は長崎医大を卒業後、軍医として旧満州(中国東北部)に駐屯。戦後は3年間のシベリア抑留を体験した。母は呉市出身で、終戦時は市内で女学校の教師をしていた。「この世界の片隅に」のすずさんは、そのまま私の母でもある。

 折に触れて父母から聞いた戦時下の生活や感覚は、被爆写真の焼け跡にかつて暮らしていた人々の面影と重なる。被爆写真の検証とは、結局は私の父や母につながる、当時の人々の生活の痕跡を後世にとどめる作業にほかならず、残された者の責務でもあるように思われる。 (長崎平和推進協会写真資料調査部会・部会長=長崎市)

(2022年3月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ