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社説・コラム

『想』 志賀賢治(しが・けんじ) 死者を記憶する

 広島平和記念資料館(原爆資料館)では、被爆体験者たちが自らの体験を語る「被爆体験講話」を行っています。彼、彼女たちの話に耳を傾けるのは主に広島を訪れた修学旅行生たちです。

 被爆体験者の多くも当時、修学旅行生と同じ中学生、女学生でした。あの日動員されて、中心市街地での建物疎開作業や軍需工場での機械作業に従事していたのです。

 彼らは、自ら目撃した光景とともに同級生と一緒に火の手から逃げ惑ったことや同級生を助けられなかったこと、そして、亡くなった同級生たちの無念を語り続けてきました。亡くなった同級生たちは、被爆の体験を語る人たちの記憶の中で確かな手触りで体験者とともに生き続け、その無念の思いは、「生き残ってしまった」体験者たちによって語り伝えられてきたのです。

 話を聞く修学旅行生たちは同世代だからでしょうか、わがことのように耳を傾けてくれるそうです。

 修学旅行生たちは、体験者の語りを「昔あったらしい過去の出来事や歴史上の人々」としてではなく、自分たちに連なることとして現実感、当事者意識を持って受け止め、そして、亡くなった体験者の同級生たちは、修学旅行生の記憶の中に生き生きと刻まれてきたのではないでしょうか。

 「人は2度死ぬ」とは、時折耳にする言葉ですが、言わんとするところは、「1度目は、肉体的な死、つまり生物としての死。2度目は、人々から忘れ去られるとき。つまり、記憶の消失」ということだそうです。

 体験者がいなくなってしまったとき、体験者とともに生き続けてきた「ヒロシマの死者」は、2度目の死を迎えることになるのです。

 遠からずやって来る体験者がいなくなる日以後、「ヒロシマの死者」の無念の思いを伝えるのは、資料館に残された物言わぬ遺品たちだけになるのでしょうか。(前広島平和記念資料館長)

(2022年3月17日セレクト朝刊掲載)

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