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社説・コラム

『想』 西村不可止(にしむら・ふかし) もう一人の自分史

 一昨年から新型コロナウイルス禍で外出自粛が続いた。そんな時、何を思ったのかふと「自分史」を書きたくなった。人生第3コーナーを回ったからかもしれない。出生から今日までの出来事や考えたことを綴(つづ)った。「誰に見せる当てもなく、記憶がなくなる前に、思い出すまま書いて…」と最後に書き加えて完了。ほぼ書き終えた頃、日本美術家連盟の会報に図録を作るなら「文化芸術活動の継続支援補助金」が出るとあり、初の画集つくりに挑んだ。

 会社勤めの余暇、35歳で絵画教室に通い始め、41歳で師の勧めで公募展に出品し、初入選。2年目に中国新聞社賞を受賞し本気になる。以来、この公募展に35年連続出品している。また望郷の念で萩市美展や国民文化祭、友人に誘われグループ展、コンテストにも出品した。搬入・搬出もできるだけ有休を取り参加した。そして定年。絵を通じ知り合ったIT関連会社の下請けをしつつ絵画教室のインストラクターにもなった。

 私は絵描きと称しているが、収入の大半が年金なのでただしくは年金生活者だろう。この程度の絵描きなので私の死後に残った絵は粗大ごみとなるだけ。寄贈するにしても大きい絵は置き場所に困るだろう。ならば画集として紙で残したら家族も処分費が安くなるだろうし、デジタル化してホームページとして残せると思ったからだ。

 ポイントは漁村の絵から抽象画に移行した時だ。「私は百姓をしたことはあるが漁師をしたことがない。ただ見えたことだけを描いている」から私の職業だった「コンピューターシステムのイメージ」をどう絵で表現するのか。もう一つは「先の戦争から私たちは何を学べば良いか」を絵で表現したくなった時だ。

 本来絵描きは絵で自身を表現するのだが、未熟な私は文字も付け足して構成した。出来栄えに満足していないが私の絵に対する想(おも)いを載せた初の画集だ。

 会社員あるいは個人事業主としての自分、絵描きとしての自分、2人の自分をこれまで楽しんだ。これが「もう一人の自分史」。(洋画家)

(2022年1月30日セレクト朝刊掲載)

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