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放影研 霞キャンパスへ 正式発表 研究機関との連携期待

 日米両政府が共同運営する放射線影響研究所(放影研、広島市南区)は29日、現在の比治山公園からの移転候補地について、広島大霞(かすみ)キャンパス(同区)に絞り込んだと正式に発表した。もう一つの候補地だった市総合健康センター(中区)と比べ、研究機関としての相乗効果などメリットが大きいと判断した。今後は設備面などで大学側と具体的な協議を深め、移転費用の試算を進める。

 放影研は今月上旬の理事会で霞キャンパスへの候補地一本化の方針を決定。日米8人の専門家でつくる評議員会の会合を23、24日に米国会場とオンラインの併用方式で開き、承認された。事前に書面で合意を得ており、異論は出なかったという。

 移転を巡っては、市が2016年に健康センター案を提示。費用調査なども進んだが、20年に霞キャンパス案が新たに浮上した。ゲノム解析など研究技術が進歩する中、研究機関との連携を求める評議員会の意見を受け、放影研から広島大に打診していた。

 霞キャンパスには原爆放射線医科学研究所(原医研)もあり、広島大の越智光夫学長は候補絞り込みを受け「被爆地だからこそすべき研究にとって多大なメリットがある」と今後の協力に期待した。

 放影研は今後、移転先で必要なスペースや設備などについて広島大との協議を具体化させ、移転費用の算定も進める。金岡里充(さとみち)副事務局長は「施設の老朽化は深刻で、研究環境としても望ましくない。日米両国での予算確保に向け早急に進めたい」としている。

 一方、廃案となった健康センター案には、センターの敷地・建物の一部を所有する市医師会が市の要請を受け協力を表明していた。山本匡会長は「残念だが仕方がない」と話した。

 比治山公園一帯の再整備構想がある広島市の松井一実市長は「市民にとり喜ばしい。早期の移転が実現するよう要望していく」とコメントした。(明知隼二)

≪ABCC/放影研の移転を巡る主な動き≫

1945年8月  米軍が広島・長崎に原爆投下
  47年3月  広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)を開設
  50年11月 広島ABCCが比治山公園に移転開始
  52年4月  日本が独立回復
  75年4月  日米共同運営方式の財団法人放射線影響研究所が発足
  86年    広島市が広島大工学部跡地(中区)を移転先として先行取得
  93年    放影研が新施設の建設計画をまとめる。米国側が財政難を理由に難色を示し、議論は凍結状態に
2006年10月 被爆医療関連施設懇話会が、市中心部への移転を柱とする地元要望をまとめる
  16年11月 市が市総合健康センター(中区)への移転案を示す
  19年6月  市総合健康センターへの移転を「可能」とする委託調査の結果が判明
  20年11月 新たな候補地として広島大霞キャンパス(南区)が浮上したことが判明
  22年6月  候補地を広島大霞キャンパスに絞り込み

放影研 霞キャンパスへ【解説】移転急務 時期は不透明

 放射線影響研究所の移転問題は、広島大霞キャンパスに候補地を絞ったことでようやく方向性が定まった。施設の老朽化は深刻で、放影研にとり移転は急務。ただ日米両政府の予算確保が課題で、実現時期はなお不透明だ。

 移転問題の発端は占領期にまでさかのぼる。放影研前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)は1947年に発足し、50年に当時の広島赤十字病院(現中区)内から比治山に移った。市は「市民の憩いの場だ」と施設設置に反対したが押し切られた。一帯の再整備計画もあり、今も移転を「宿願」と位置付ける。

 一方の放影研にとっても移転は切実な課題だ。築70年を超える施設を使い続けるための維持コストは年間数千万~1億円に上る。繊細な管理が求められる最新の研究機器にとっても望ましくない環境だという。

 ただ、移転の実現は日米両国の予算次第。過去には市が移転用地を取得し、放影研も建設計画をまとめたにもかかわらず、米国側の財政難で凍結されたこともあった。市も「候補地は定まったが、まだスケジュールは見えない」と冷静だ。

 放影研は、被爆者の協力で世界的にも貴重な試料や研究成果を蓄積してきた。ABCC時代には望まぬ「協力」を強いられた被爆者も少なくないからこそ今後も蓄積を公益のために生かしていくことは責務でもある。移転を通じ、その能力をいかに高めていくのか。説得力ある青写真を描けるかも予算を獲得する鍵となりそうだ。(明知隼二)

(2022年6月30日朝刊掲載)

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