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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 三村正弘さん―胎内被爆 15歳で孤児に

三村正弘(みむらまさひろ)さん(76)=広島市西区

「今度は自分が」 被害者支える側に

 原爆被害者相談員の会代表の三村正弘さん(76)は、母親のおなかの中で被爆した胎内(たいない)被爆者です。しかし、自身を被爆者だと意識したのは1960年に両親が相次ぎ亡くなってから。中学3年生で原爆孤児(こじ)としての人生が始まりました。

 45年当時、父・重雄(しげお)さんと母・知世子(ちせこ)さんは、爆心地から約7キロ離れた安芸郡温品(ぬくしな)村(現広島市東区)に9歳の長男と暮らしていました。8月6日、重雄さんは勤め先があった宇品(現南区)から帰宅途中(とちゅう)、爆心地から約2キロの荒神(こうじん)橋付近で被爆。背中にやけどを負い、自宅に戻(もど)ってきました。

 翌7日、三村さん一家は己斐(現西区)にあった知世子さんの実家に安否確認を兼(か)ねて食糧(しょくりょう)を届けに向かい、入市被爆しました。知世子さんは妊娠(にんしん)8カ月。あまりの惨状(さんじょう)にショックを受けたのでしょう。重雄さんが被爆したのと同じ荒神橋付近で具合が悪くなり自宅に引き返しました。一家は13日にも己斐に向かうため入市しました。

 この時知世子さんのおなかにいたのが、三村さんです。こうした状況(じょうきょう)を直接知る由(よし)もありません。後に兄が被爆者健康手帳を申請(しんせい)した際に書いた記録などから分かりました。

 中学3年の春、原爆を意識せざるを得ない出来事が起こりました。知世子さんが4月に広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)へ、5月に重雄さんが原爆病院(同)へ相次いで入院したのです。2人ともがんでした。6月には重雄さんが死去。知世子さんは寝たきり状態になり、三村さんは中学に通いながら、叔母(おば)と交代で病院に泊まり、看護に当たりました。しかしその知世子さんも11月に亡くなりました。

 15歳で突然(とつぜん)、孤児となりました。兄は仕事に追われ、三村さんが家事全般(ぜんぱん)を担わなくてはなりません。ほとんど学校に行けず受験勉強にも身が入りません。いら立ちや絶望感にさいなまれました。「むなしくて悔(くや)しくて…」。そう振り返り、言葉を詰(つ)まらせます。

 母を看護していた頃、息抜きの場になったのが中高生たちでつくる「広島折鶴(おりづる)の会」の平和活動です。父が原爆病院に入院していた時に慰問(いもん)を受け、世話人の河本一郎さんから誘(さそ)われました。60年8月に東京であった原水爆禁止世界大会には父の遺影(いえい)を持って参加し、核兵器反対を訴えました。現実から逃(のが)れるように活動にのめり込み、広島大教授らが中心となり孤児を支えた「広島子どもを守る会」の集いにも出かけました。

 奨(しょう)学金を得て高校、大学へ進学。たくさんの人に助けられた体験から社会福祉(ふくし)に関心を持つようになり、日本福祉大(愛知県)へ進みます。親を早く失った境遇(きょうぐう)を恨(うら)んだ時期もありましたが、「多くの人に支えられ、恵まれてきたんだと気付かされました」

 卒業後、広島の病院に医療ソーシャルワーカーとして就職。相談を受け、支える側として被爆者と接することになりました。被爆者の暮らしや権利を守るため、81年に仲間たちと「原爆被害者相談員の会」を結成。今は代表です。被爆者が体験証言する場を設けたり自分史を残したりする取り組みも続けています。原爆症認定集団訴訟(そしょう)や在外被爆者訴訟など、被爆者が国に救済を求める裁判でも、黒子となり支援しています。

 歳月とともに被爆者が少なくなる中、体験を共有し継承しようと2014年には胎内被爆者の組織も結成しました。自身の歩みを振り返りつつ、「全ての核がなくなる日まで頑張(がんば)りたい」と思いを強くしています。(森田裕美)

私たち10代の感想

世代超え続く不安知る

 被爆した両親が相次いで亡くなった時の気持ちについて、話すのもつらいと言ってそれ以上語られなかったのが、心に残りました。胎内(たいない)被爆者のことも、医療ソーシャルワーカーについても、初めて知りました。核兵器がひとたび使われると、直接被爆した人だけでなく、子どもや孫の世代もいつまでも不安につきまとわれ続けるのだと思いました。(中3・中野愛実(まなみ))

両親の死 言葉の先思う

 三村さんは何度も、原爆孤児(こじ)の中では「自分は恵(めぐ)まれていた」と言いました。ですが両親を亡くしてからのことは「きつかった」とだけ話し、実際には私では想像できないほどつらかったのだろうなと思いました。たくさんの人に支えられてきたから社会福祉(ふくし)の道に進んだという三村さん。私もそう考えることができる人になりたいです。(中3・小林由縁(ゆかり))

 被爆後はみんな明日生きることに一生懸命だったんだなと思いました。中学3年生のときに両親を亡くし、少し荒(あ)れたという三村さんでしたが、出会った様々な方に支えられたことが現在の職業にもつながっていると聞いて素晴らしいことだと思いました。奨(しょう)学金をもらって大学にも進み、三村さんは「自分は恵(めぐ)まれている」と何度もおっしゃっていました。昨今では大学に行くことなど半ば当たり前のような時代になってきましたが、三村さんのお話を聞いて、お金を払(はら)ってくれる両親や自分に関わる全ての人に感謝しながら、これからも生きていこうと思いました。(高1・中真菜美)

(2022年7月4日朝刊掲載)

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