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社説・コラム

『書評』 福島菊次郎 あざなえる記憶 那須圭子著

老写真家の私怨と遺言

 40年近く前に評者が写真家福島菊次郎を撮ったスナップ写真が書棚から出てきた。評者たちが徳山市(現周南市)で開いていた読書会に福島が顔を出し、よもやま話をしてくれたと記憶する。社会派写真家として、彫金作家として既に名を成した人だったが、考えあって周防大島の無人島に移り住んで間もない頃。

 だが福島は好々爺(や)にならなかった。その後の歳月も、同世代の多くの若者を戦争に駆り立てた国家への「私怨(しえん)」を抱いて生き、自らの棺桶(かんおけ)を自作し、最後は体重28キロになった病身をフォトジャーナリスト那須圭子に撮らせる。師というより「救い」のような存在だった―と那須は言う。

 没後7年、福島の巻末の語録をたどる。<そうか。あなたと僕はあの日、あさま山荘でもう出会ってたのね>という言葉が冒頭にある。福島は1972年の連合赤軍事件の現場で単身カメラを構えていた。那須は小学5年。出会いははるか先の二人だったが、ともにテレビには映らない国家の思惑を見抜いていた。

 <独りになることを恐れないで。孤立することを恐れないで>。取材対象の行いが間違っていることを指摘すべきかどうか、迷う那須に福島が掛けた言葉である。<僕は、独りでいることの大事さを九十年かけて身につけた>。撮影が歓迎される現場はまずなかっただろう。それでも作品は評価されたが、ある広島の被爆者のように救われない人もいた。孤立を恐れはしないが、後ろめたさは残った。生涯引きずった思いである。

 最晩年には<人間、最後はウンチもぶれよ>と山口弁で言い放ち、わが姿を全て撮って全て発表せよ―と那須に伝えた。那須は膨大なネガを託す先も見届け、自作の棺桶で代用していたネガ棚が空になったことに涙する。だが福島は<あ~うまくいったって感じ>と言ってのけたのだ。

 福島の力の源泉とは「ごく私的な記憶」だったと那須は思う。自らの私怨であり、遭遇した名もなき民の私怨である。それらが縄をなうように―。福島が生まれた下松市の海辺を歩いては、菊丸と呼ばれた幼い福島の面影を那須は今も探している。(佐田尾信作・客員特別編集委員)

かもがわ出版・2420円

(2022年7月10日朝刊掲載)

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