×

連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者 <1> 奇跡的生還

 被爆2カ月後の1945年10月、写真家の菊池俊吉さん(90年に74歳で死去)は専門家による被害調査に伴う原爆記録映画の撮影に同行し、広島市内の被爆者を何人も写真に収めた。ロシアのウクライナ侵攻で核兵器使用の懸念が高まる中、使われれば人間に起こる惨禍の実態が記録されている。写された一人一人の体験と思いに手記や証言、家族の話を通じて迫る。(編集委員・水川恭輔)

死の淵 両耳失い脱毛も

 「奇跡的生還」。菊池さんのメモにそう記された被爆者がいる。広島赤十字病院(現広島市中区)で撮られた当時21歳の入院患者、迫越英一さん。大やけどした左右の耳は耳たぶを残して形をとどめておらず難聴になっていた。放射線で脱毛、下痢、発熱、皮下出血斑にも襲われていた。

 「頭に鉄片が刺さった痕が指が入るぐらいの大きさでへこんどったんですよ。『死体と一緒にされ、焼かれそうになった』とも聞きました」。長女筒井公子さん(62)=呉市=は、生前の父から壮絶な体験を聞いている。父が29年後に記した手記も受け継いでいる。

軍服に火がつき

 手記などによると、迫越さんは戦時中、基町(現中区)の広島第二陸軍病院の衛生兵。兵舎に住み、市内の軍施設への伝令が任務だった。任務を早く済ませて河原町(現中区)の実家で暮らす母ハヤさんに会うのが楽しみだった。

 45年8月6日朝は、爆心地から約1キロの広場で朝礼をしていた。「真っ黄色い閃光(せんこう)が地上に覆いかぶさったような感じだった」(手記)。背中の軍服に火がつき、地面を転げ回って消した。病院はがれきの山と化していた。

 「顔はズルっと皮がむけていて、頭は焼けてガサガサになり、何かささっている」(同)。頭を振ると、やけどをした体に血が流れ落ちた。耐えがたい痛みの中、牛田町(現東区)の山中に逃げた。そこで一時は気を失っていたという。

 その後、何とか実家の焼け跡に戻ったが、母の安否は不明。捜すにもけががひどく、その場に何日もとどまり、通りがかりの人がくれた乾パンなどで飢えをしのいだ。8月21日、たまたま前を通った看護師に担架で赤十字病院に運ばれた。

 頭から取り除いた鉄片は数センチあったという。「死の寸前のままで二、三カ月はかかったように思う」(同)。年末に退院し、松葉づえをついて親戚の住む倉橋島(現呉市)に渡った。母は被爆死していた。

 その後も体調がすぐれなかったが、58年に結婚した後、少しして好転。呉市のごみ処理工場などで働き、1男2女を育てた。

重複がんで死去

 今回の取材の場には長男幹之さん(59)=呉市=と次女河野明子さん(57)=広島市佐伯区=も同席し、父の思い出を語った。映画とコーヒーが好きなハイカラな人柄。生き延びた体験を胸を張って話していたという。子どもの頃、友達から「お父ちゃん、耳ないの」などと聞かれても「恥ずかしいと思ったことは一度もない」と口をそろえた。

 菊池さんの写真に写っているのが知られるようになったのは、被爆から23年となる68年。広島、長崎で撮られた原爆記録映画が米国から返還されて公開された。その関連で写真が報じられ、迫越さんが名乗り出た。本紙は同年8月1日付の夕刊に記事を掲載。迫越さんが工場でショベルカーを操る写真も載せた。

 ところが16年後の84年、喉、肺、副腎に相次ぎがんが見つかった。転移ではなく複数の部位に発生する重複がん。爆心地に近い距離で被爆した人に特に目立つと指摘されている。翌85年、60歳で亡くなった。

 「原爆は怖いという気持ちは自然と大きくなった」と河野さん。幹之さんは「被爆国日本は非核の先頭に立ってほしい」と願う。

 3人は、原爆の悲惨さを感じてほしいと、耳がくっきりと写る被爆前の写真を見せてくれた。迫越さん本人も、68年の本紙取材にこう語っている。「この子たちのために、もう戦争は嫌だ。原爆は嫌だ」

(2022年7月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ