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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者 <2> ガラス傷の女性

左目失明 娘2人も犠牲

 現在も被爆した外来棟が残る広島逓信病院(広島市中区)。爆心地から約1・3キロ北東で焼け残り、1945年8月6日当日から被爆者の救護を続けた。写真家の故菊池俊吉さんは45年10月8日に訪れ、女性の目の治療風景を撮影した。

 女性は当時48歳の松下ひささん。爆風で飛び散ったガラスの破片が左目に突き刺さり、9月に眼球を取り除く手術を受けた。だが、「経過良好ナラズ」(菊池さんのメモ)。左耳の下や肩、背中もガラスで大けがをし、放射線の影響で白血球は一時大幅に減った。

 ひささんはどんな人だったのだろう。記者は、大阪府豊中市に住む孫の安藤一郎さん(70)を捜し当てた。「眼帯をしているのが祖母です」。自宅を訪ねると、幼い頃にひささんと納まった写真を見せてくれた。

 安藤さんは、2男4女を育てたひささんの三女、愛さん(92)=吹田市=の長男。愛さんの手記や戦前の資料から、ひささんと家族の足取りが見えてきた。

 ひささんは富山県出身。被爆の10年ほど前、同郷の洋画家の夫宗義さんが広島女学院高等女学校の絵の教師に就き、広島市に家族で移った。宗義さんは広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)などを会場に、市内で個展を重ねていた。

バラは娘の形見

 45年8月6日。当時27~12歳だった2男4女のうち長男は県外の陸軍部隊におり、愛さんは前日から宗義さんと今の江田島市内の親戚を訪ねていた。原爆がさく裂した時、ひささんと次男、娘3人が広島市内にいた。

 ひささんは幟町(現中区)の自宅の洗面所にいたという。爆心地から約1・1キロ。ガラスの破片が体のあちこちに突き刺さって血まみれになり、倒れていたところを同じく自宅にいた次男に助けられた。

 だが、娘2人が犠牲になった。次女は自宅のはりの下敷きになり、助け出せなかった。建物疎開作業に動員されていた女学校1年だった四女も被爆死した。

 ひささんは激痛の末に左目を失ったが、命は取り留めた。家族は翌年、富山に帰郷した。枯死したと思っていた庭のバラに芽が出ているのを見つけ、持ち帰って移植した。

 「バラは娘2人の形見だったんです」と安藤さん。移植したバラが咲くと、宗義さんは洋画に描いた。富山では中学校長を務め、生徒に平和の大切さを説いた。だが、体調を崩して54年に56歳で亡くなった。あの日は広島市外にいて爆風や熱線は免れたが、当日に市内へ戻り被爆していた。

「二度と戦争は」

 夫に先立たれたひささんの楽しみは各地で暮らす孫に会うことだった。68年、菊池さんの写真が報道された際、自分であると名乗り出た。晩年は肝臓を患い、82年に85歳で死去した。知人の追悼文によれば「二度と戦争はすべきでない」と口癖のように話していた。

 子どもでただ1人健在の愛さんは6年前、安藤さんの妻美直子(みなこ)さん(63)の手助けを受けて被爆手記をまとめた。愛さんも15歳だった当時、父と壊滅した市内に入った。「原爆を認める限り何時の日か世界破滅の危機は明らかです」(手記)

 安藤さんは、宗義さんが形見のバラを描いた絵を自宅に飾っている。美直子さんとともに外国人観光客のガイドをしており、大阪を訪れる外国人の多くが広島にも行くと実感しているという。「広島のこと、家族の被爆のこともガイドで伝えられれば」。夫婦でそんな思いが芽生えている。(編集委員・水川恭輔)

(2022年7月16日朝刊掲載)

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