×

ニュース

[ヒロシマの空白 証しを残す] フィルムに写る幼子 呉の竹本さん初証言

兄が紡いだ命 今こそ

 1945年の原爆投下から間もない広島を写したフィルムに、兄に背負われた幼い少年の姿が残っている。頭から頰にかけ包帯を巻き、カメラに目をやる少年は、竹本秀雄さん(80)=呉市倉橋町。被爆から77年を迎える今夏、東広島市内であった集会で、子どもたちに初めて被爆体験を語った。(高橋寧々)

 当時3歳だった秀雄さんは、爆心地から約1キロの広島市中区大手町の自宅で被爆した。倒壊した家の下敷きになり、兄の定男さん=当時(11)=に助け出された。「家はその後すぐ燃えた。兄がおらんかったら僕はここにはおりません」

 左頰に負った傷は骨が見えるほど深く、傷痕はケロイドになった。19歳の時にケロイドの切除手術を受けた。「削る時のジキッ、ジキッという音は忘れられないね」と振り返る。

被爆の2ヵ月後

 フィルムは、日本映画社(解散)のスタッフたちが撮影した記録映画の一場面。秀雄さんは、自身が写るフィルムの一部を保管している。義理の兄が数十年前に東京の映画館で原爆の記録映画を見た際、竹本さん兄弟が写っていることに気付き、映写技師に頼み込んで2人が登場するシーンの3枚を譲り受けたという。被爆から約2カ月後、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院、広島市中区)付近で撮影されたカットといい、「傷の治療に向かう途中だったのかも」と推測する。

 定男さんは23歳の時、交通事故で亡くなった。生きている時に原爆の話をしたことはなかった。「今思えば聞きたいことばかり。助けてくれてありがとうと伝えたい」。フィルムを引き伸ばした写真を、自宅の仏間に大切に飾っている。

 毎年8月6日が近づくと、テレビでフィルムの映像が流れることもあったが、親しい人以外に打ち明けることはなかった。「自分に言えることはない。そっとしといてもらいたい」。それだけだった。

 気持ちに変化があったのは昨年、50年来の親友で東広島市原水協のメンバーでもある北川純彦さん(76)=同市黒瀬町=から、兄弟の写真を原爆展で展示させてほしいと依頼を受けたことだった。「証言している人の姿を見て、やっぱり話さにゃいけんのかなという思いは持っていた」。妻と話し合い、初めて被爆体験を語ることを決めた。

涙に込めた思い

 今月10日、市黒瀬生涯学習センターであった原爆展に合わせて開かれた証言会には、約70人が集まった。秀雄さんは涙を浮かべて兄への感謝や戦争の悲惨さを訴え、子どもたちには「人をいじめず、優しい人になってほしい。それが戦争をなくす基盤になる」と語りかけた。

 講演を終えた秀雄さんは「呪縛のようなものが解けて気持ちが軽くなった」とほほ笑み、「兄ヘの思いを忘れずに、これからも生きていきたい」と誓った。

(2022年7月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ