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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者 <3> 救護所の母子

治癒信じた家族の無念

 写真家の故菊池俊吉さんが1945年10月11日ごろに撮った大芝国民学校(現広島市西区の大芝小)の救護所は、板張りの教室に入院患者を収容していた。もともと理科室という部屋に、症状の重い母と娘がぐったりと横たわっていた。

 菊池さんのメモによれば、母は31歳の竹内ヨネさん、娘は12歳のヨウさん。2人とも舟入町(現中区)の自宅で被爆した。母はけががなく、当初は倒れた冷蔵庫で足に大けがをした娘を看護していたが、約1カ月後から紫斑や歯茎の出血が現れて体調が悪化。9月18日から入院していた。

撮影直後に死去

 「なんらの外傷もなかったのに突然の原爆症に慄然(りつぜん)とする思いであった」(「原爆を撮った男たち」の菊池さんの手記)。母は呼吸困難にも陥り、撮影直後の10月14日に息を引き取った。同じく脱毛や下痢など放射線障害の症状が出ていた娘も翌月に後を追った。

 母と娘の写真は原爆資料館(中区)に展示され、核兵器使用の悲惨さを伝える。家族の無念はいかばかりか。記者は遺族を捜した。

 娘の兄の名前は分かっていた。竹内信之さん。古い電話帳などで捜すと、96年に63歳で亡くなっていた。

 家族の手記類も捜したが見当たらない。だが中国放送(同)に信之さんの取材映像が残っていた。亡くなる前年の95年。市内に1人で暮らしていた信之さんは同社の取材に声を詰まらせながら、こう答えていた。

 母の正しい名前はヨ子(ね)コさん、妹は陽子さん。母が仲居で働き、3人で暮らしていた。13歳だった信之さんは中学の動員先で被爆した。母が入院すると、そばで付き添った。当初は治ると思っていたという。

 ところが母は夜に「船がついたでえ、ミカンがなっとらあ」とうわごとを言った翌日、亡くなった。妹も失い、1人取り残された信之さんは学校をやめ、道端で野菜を売るなどして生き抜いた。「本当に惨めでした」(取材映像の証言)

身元不明 今なお

 菊池さんが広島を撮った45年10月は、並行して原爆記録映画も撮影された。中国放送は94年から、その映画に映る人や家族を3年がかりで取材。96年に計4時間半の番組「焦土のカルテ」を放送した。菊池さんの写真を読み解く上でも貴重な証言が収められ、信之さんも登場する。ロシアのウクライナ侵攻で核使用の懸念が高まる中、同社は今年8月5~7日の深夜に再放送する。

 ただ、映画や菊池さんの写真に写る被爆者で、なおも身元がはっきりとしていない人も少なくない。

 菊池さんによる大芝国民学校の救護所の写真には、医師が裸の幼児を診る様子が写っている。記録映画の関係者のメモによると、幼児は容体が急変して運ばれ、すでに息絶えていた。名前を含め詳細は不明だ。

 医師は故長崎五郎さんだと分かっている。長崎さんの孫の長崎病院(西区)院長、孝太郎さん(70)を記者が訪ねると、長崎さんに関する資料をいくつも読ませてくれたが、幼児に関係する情報は見つけられなかった。

 この写真は、被爆から2カ月がたっても幼い命までも奪われ続けていた証拠である。一方で、誰の命が奪われたのか、残された家族はどんな思いだったのかは分からない。埋まらない「空白」も残っている。(編集委員・水川恭輔)

(2022年7月17日朝刊掲載)

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