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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者 <4> 赤十字病院の医師

家族犠牲も 続けた治療

 広島市中区の医師、森田健司さん(70)は3年前、原爆資料館(中区)で1枚の写真に目を奪われた。広島赤十字病院(現中区)に関する企画展。被爆後の救護の拠点となったことを伝える資料が並ぶ中、その写真では医師が少年の手のやけどを診療していた。

母と妹遺骨なく

 「『どこかで見たことがある顔じゃなあ。あっ、おやじじゃないか』と」。医師は、同病院の皮膚科に勤めていた森田さんの父、愛之(よしゆき)さん(1993年に80歳で死去)だった。被爆2カ月後の45年10月5日ごろ、写真家の故菊池俊吉さんが撮影していた。

 森田さんは、亡き父から被爆当時のことを詳しく聞いてはいないという。それでも、資料館の学芸員に「父が写っている」と名乗り出て、分かる限りのことを伝えた。愛之さんもまた被爆者であり、家族4人を奪われた遺族だった。

 森田さんの家族は江戸時代から続く医師の家庭。戦前、実家は現在の中区土橋町で医院を営んでいた。

 45年8月6日。当時33歳だった愛之さんは爆心地から約1・7キロの平野町(現中区)の自宅で被爆し、幸いにもけがは軽かった。だが、約500メートルで爆風、熱線を受けた実家は街もろとも壊滅した。実家には、愛之さんの母エミさんと弟親之さん、妹の重子さんの3人がいた。

 「おやじは、大八車を引いて家族を捜し回ったそうです」。ピアニストだった親之さんは、実家の焼け跡に残っていたピアノのそばで顎の骨が見つかったという。母と妹は結局、遺骨も見つからなかった。

 愛之さんのもう一人の弟、知之さんも犠牲になった。森田さんは被爆場所をはっきりと聞いたことはない。ただ、知之さんが避難した己斐(現西区)から愛之さんと連絡を取ろうとした手紙が残る。

証言や資料が鍵

 手紙は8月11日付。「日赤皮フ科医員 森田愛之兄上様」に宛てて「何とか連絡をつけたい」と走り書きし、「母上、親之兄、重子姉の消息は全く不明。恐らく駄目と思ひます」「私のみは不思議に生あって(中略)足が未(いま)だ充分でないので、一歩も外出しません」。だが、知之さんもその後亡くなった。

 愛之さんは50年に市内で皮膚科を開業した。今は森田さんが継いでいる。父が写る写真を皮膚科医師の目でも見て、大変な状況を感じ取っている。「2カ月たっても治らないのは相当深いやけどです。なのに部屋には治療に使えそうなものがほとんどないように見える」

 菊池さんの写真の背景を読み解く上で、遺族の証言や資料が貴重な手掛かりとなる。写された医師の情報が遺族の協力で得られたこともあった。

 同病院内科の診療風景に写る医師、土井茂さん(91年に77歳で死去)。本人の手記などは見つけられなかったが、長男芳やさん(73)=中区=が手掛かりとなる土井さんの被爆者健康手帳の交付申請書を読ませてくれた。遺族に限り交付を受けた自治体に申請すれば複写を得ることができる。

 「使用にたえる病室なくも院内は負傷者で充満」。申請書には、窓や壁が壊れた同病院で8月6日当日から救護をしたとつづられている。土井さんもまた被爆し、惨状を目にしながら医師の務めを果たしていた。(編集委員・水川恭輔)

(2022年7月18日朝刊掲載)

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