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連載・特集

ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者 <5> 校舎の壁の伝言

火葬の翌日 娘の死刻む

 広島市中心部で鉄筋校舎が焼け残った袋町国民学校(現中区の袋町小)。1945年10月に訪れた写真家の故菊池俊吉さんは、校舎内の救護所の様子に加え、校舎の壁の伝言を撮った。死亡や行方不明の生徒たちの名前が書かれていた。

 「三好登喜子 奥海田国民学校デ死亡致シマシタ 父三好茂」―。菊池さんは名前が並ぶ壁を撮影し、三好茂さん(80年に76歳で死去)が同校高等科1年だった次女登喜子さん=当時(13)=の死を担任に伝えた伝言をアップで写した。

 娘の名前を書く三好さんは、胸が張り裂ける思いだった。「被爆体験―私の訴えたいこと」(77年刊)に手記が収められている。

 三好さんは被爆前、今は平和記念公園(中区)となった旧材木町で、妻と1男4女の計7人で暮らしていた。45年8月6日、舟入幸町(現中区)の勤め先で被爆。翌日、自宅辺りにたどり着くと、妊娠中で腹帯をしていた妻の白骨が残っていた。焼死したとみられる。捜し歩いたが、子どもの安否は分からなかった。

 9日夜、市郊外の避難先に、登喜子さんが奥海田国民学校(現広島県海田町の海田東小)の救護所にいるという知らせが届いた。10日未明、救護所に着くと本人がいた。

 「ほんとに、ほんとに嬉しかった、登喜子さん、後は涙で口がきけない」(以下、手記)。登喜子さんは市中心部の建物疎開作業に動員されて被爆。後頭部にガラスの破片が刺さり、手も大けがをしていた。白のセーラー服は血で染まり、かちかちになっていた。

夜通しの看病

 三好さんは夜通し必死に看病した。「桃が食べたい」という登喜子さんのために、親戚に桃を持ってきてもらった。家族の安否を聞かれると、ショックを受けるに違いない妻の死や子どもの行方不明は伏せた。「一緒に田舎へ逃げたよと嘘をつく、済まない」

 再会から5日目の14日。「水が欲しい」という登喜子さんにヤカンで水を飲ませると、少しして息を引き取った。「可愛相な登喜子さん、痛かったであろう。苦しかったであろう(中略)思いきり泣いて泣いて涙の止まる迄泣いた。なんで自分も死ななかったかと」

 校舎に残した伝言は、登喜子さんを近くの山中で荼毘(だび)に付して遺骨を拾った翌日に書いたという。結局、子ども5人のうち長女だけが助かった。9~3歳だった長男、三女、四女は遺骨も見つからず、妻子5人を失った。

 三好さんは被爆から28年後、市内で展示されていた菊池さんの写真で自身の文字を見て、手で目を覆いながら登喜子さんとの別れを語った(73年6月24日付本紙記事)。手記はその4年後に書かれ、こう結んでいる。「唯々お願い 世界平和を願い、核絶対反対、二度と戦争のない世の中に」

犠牲者の「声」

 死の寸前だった負傷者、「原爆症」の患者、家族から報告される死者…。焦土の広島で撮影して回った菊池さんは「原爆の非情と実体を見せつけられた」(「原爆を撮った男たち」収録の手記)という。その菊池さんが77年前に見たものを私たちは今、写真を通して目にすることができる。

 撮られた人や家族の手記、証言記録を写真と結び付けてたどることで、伝わる情報は格段に増す。写された被爆者の「声」に向き合い、未来への警鐘とする努力が一層求められる。(編集委員・水川恭輔)

 連載「ヒロシマの空白 証しを残す」の「写された被爆者」編は終わります。

(2022年7月19日朝刊掲載)

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