×

連載・特集

未解明の原爆被害 掘り起こしを シンポ「戦争の記憶―ヒロシマ/ナガサキの空白」 詳報

 広島市立大広島平和研究所、中国新聞社、長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)共催のシンポジウム「戦争の記憶―ヒロシマ/ナガサキの空白」が18日、オンラインであった。広島と長崎を壊滅させた原爆の被害実態は、その甚大さゆえに、さらには戦後も日本政府が本格調査を通して直視しようとしてこなかったなどの理由から、未解明の部分が多々残る。あの日から77年を数え、被爆者の高齢化が進む現在の課題を、本紙記者、大学の研究者たちが討論。中国新聞ホールでの上映会場も含め、計約300人が視聴した。(金崎由美、森田裕美、明知隼二、湯浅梨奈)

登壇者

 ■報告・討論
 水川恭輔氏 中国新聞社編集委員
 林田光弘氏 長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)特任
       研究員
 四條知恵氏 広島市立大広島平和研究所准教授
 ■モデレーター
 山口響氏 長崎大RECNA客員研究員・特定准教授
 ■司会
 竹本真希子氏 広島市立大広島平和研究所准教授

水川恭輔氏

公開情報で遺骨返還実現

動態調査 資料探しが必要

 被爆者の平均年齢は今年84歳を超えた。証言活動を続けてきた人たちが高齢化する中、被爆地では記憶の継承に関わるさまざまな活動が広がっている。一方で原爆の被害実態は今も分かっていない空白が残る。未解明部分をどう調べ、記録するかも問われている。

 中国新聞社は社員114人が原爆で犠牲になった。1964年の社説で原爆の悲惨さを徹底的に調べて世界に知らせることを提唱し、先輩記者が埋もれた被害を掘り起こしてきた。その営みを受け継ぐ意識で2019年に企画「ヒロシマの空白」(20年度新聞協会賞受賞)を始めた。

 取材の柱の一つは、犠牲者数の空白だ。広島、長崎両市は76年に国連に提出した要請書の中で広島原爆の45年末までの死亡者を推計14万人(誤差±1万人)と報告した。一方、広島市が79年に始めた原爆被爆者動態調査では、45年末の犠牲者は19年3月時点で8万9025人だ。

 単純計算すれば、両者に数万人の開きがある。取材を進めると、動態調査は一家全滅の世帯や県外から配属されていた軍人、朝鮮半島出身者などが把握しにくいことが確かめられた。全容調査に消極的だった国の姿勢が背景の一つにある。県外や海外にまだ使われていない資料が残っており、活用が求められている。

 犠牲者の遺骨についても取材した。原爆供養塔に安置されている身元不明の遺骨は約7万体とされ、現在814人は名前が分かっている。市は納骨名簿を作って遺族を捜しているが、政府は「地方がやること」として関与しない。

 取材班で遺族を捜した。納骨名簿と、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺族が登録している名前を照合すると、読み方と住所が一致する名前があった。それをきっかけに、遺族への返還が実現した。遺骨の名前と同じ名字の人が書いた手記を調べ出し、身元が分かった例もあった。公開情報で、できることはある。

 また、「街並み再現」と題して被爆前の広島の写真を紙面やウェブサイトで紹介している。被爆前の写真は公的な収集体制が弱い。読者に写真を募り、原爆での焼失を免れたカットを寄せていただいている(約70の個人・団体)。現在、撮影場所を特定できた約1200枚を公開し、消し去られた街の姿を伝えている。

 取材班は動態調査から長年漏れていた犠牲者の人生や遺骨の身元をたどる中、一人の命の重みをあらためて実感した。その重みを思って記録を続けてこそ、核兵器使用の非人道性が浮き彫りになると思う。

みずかわ・きょうすけ
 東京大文学部卒。2007年中国新聞社入社。報道部、備後本社などを経て現職。被爆70年企画「伝えるヒロシマ」も担当。岡山市出身。

原爆被爆者動態調査
 被爆から34年後の1979年度、原爆被害の把握へと動くよう政府に求める機運が高まっていた中で始まった広島市の調査。52年に建立した原爆慰霊碑の石室に納める市原爆死没者名簿、45年当時の事業所や学校の原爆死没者名簿をはじめ、国や県などの複数の関連資料を手掛かりに、生存被爆者と死亡者の名前を集め、積み上げている。

林田光弘氏

被爆前の日常写真を活用/リアリティー取り戻す

 長崎大RECNAは、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館と共同で「被爆の実相の伝承」のオンライン化・デジタル化事業を進めている。取り組みの2本の柱は、原爆投下前後の航空写真を使ったオンライン地図の制作と、被爆前の日常生活を捉えた写真を生かしたコンテンツ作りだ。

 地図については現在、米軍が被爆前後に撮影した長崎市の航空写真121枚を1枚につなぎ合わせる作業を進めている。完成すればウェブ上で閲覧でき、焼け野原と化した場所にかつてどんな街並みがあったのかなどが分かるようになる。

 被爆証言ではたびたび地名が登場するが、土地勘のない人には分かりづらい。地図上には、浦上天主堂など大型の被爆遺構を3Dで再現し、写真や地名、証言などの情報も加える計画だ。被爆証言に活用してもらうことも考えている。

 被爆前の日常を収めた写真は昨年7月末に募集を始め、20人から6千枚以上が集まった。原爆に奪われた街並みや家族の暮らしぶりを伝える写真で、これまで長崎市の公的機関では十分に収集できていなかった。

 核兵器は、私たちの想像をはるかに超えた被害を生む。だからこそ現実の出来事として、また自分ごととして捉えにくく、証言を聞いて「映画のよう」と話す学生も少なくない。亡くなった人の人となりや生活を想像する機会が十分ではなかったためだ。

 写真は、核兵器が何を奪ったかを想像させる。例えば、子どもがいる食卓の写真から、現在との共通点を見いだせる。学生からも「焼け野原の写真だけを見るより共感できる」「自分の家族が被爆したら、と考えるようになった」と感想があった。原爆被害の「空白を埋める」とは、こうしたリアリティー(現実感)を取り戻す行為ではないか。

 また、写真の一部を実験的に人工知能(AI)でカラー化したところ、より共感を得られた。あくまで本当の色の再現ではないし、当時からカラー写真があったような誤認につながりかねない面はあるが、場面に応じた活用を検討したい。

 現在は集まった写真を生かした動画やスライド制作を進めている。教育現場での活用を想定し、秋にはウェブ公開を目指している。

 被爆者の平均年齢は84歳を超える。被爆者に代わって私たち非被爆者が証言していかないといけない段階に入る。いまのうちにどれだけ未解明の事実を掘り起こし、資料を保存できるか。オンラインでの発信や学習が定着した今、ネット上の学習環境をつくり育てる意識も重要だ。

はやしだ・みつひろ
 明治学院大博士課程前期退学。ヒバクシャ国際署名キャンペーンリーダーなどを経て、2021年から現職。長崎市出身。

四條知恵氏

「語られないもの」に目を/ろう者の体験証言に光

 ロシアのウクライナ侵攻で核兵器使用が現実味をもって受け止められる中、被爆者の証言は、聞く人にさらに重みを持って受け止められていると思う。

 被爆者は証言という形で自らの体験を国内外に発信し、核兵器廃絶を目指す運動をけん引してきた。6月には核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開かれた。条約制定過程で核兵器の非人道性が注目され、被爆者の証言は大きな役割を果たしてきたと言える。

 一方、まだたくさんの語られていない原爆被害がある。語りの一つの様式である「証言」は、例えば修学旅行や平和学習などで講話としてなされる。「場」があることで被爆者は語ることができ、一度に多くの人が聞くこともできる。

 半面、限られた時間で繰り返し話すうち、語りの「型」が生まれがちだ。原爆被害はその後の人生に長く影響するにもかかわらず、ピカッと光った直後からの被害内容に集中する。

 講話では「語られないもの」がある。さらに言えば、証言活動をする人は被爆者全体の中でわずか。今も心の傷となっていることを語るのは困難だ。

 特に「周縁」に置かれた人々が語る難しさもある。朝鮮半島や被差別部落の出身者、障害者の体験である。長崎で調査したろう者の被爆体験記には、自分たちが「忘れられた存在だった」とある。その多くは1980年代の発行だが、長崎で証言運動が盛んになったのは60年代で、証言集が相次ぎ発行されたのが70年代。被爆証言の中でも、沈黙による時間のずれがある。

 ろう者の被害の実態を正確に把握することは難しい。孤立して暮らしていた人も多いとみられ、公的な記録に記載がない。積極的な被害の掘り起こしや発信もされてこなかった。ろう者が自身の置かれた状況を認識するのに、遅れが生じていたことが分かる。80年代に「きのこ雲」という表現を知ったという人もいる。

 今、私は音声で伝えている。聞こえる人はマジョリティーで、原爆被害はこれまでもっぱら音声言語で語られた。聞こえる人の歴史である。「空白」を生むのは、それだけ被害が大きいからというだけでない。私たちの社会状況が「空白」を生んだのではないか。

 語られないものに目を向けることは、現在の自分自身の足元を考えることにつながる。従来の「証言」の枠組みを考え直しながら、原爆被害を語る営みをより豊かにする取り組みが必要だ。それが私にとっての体験継承であり、私たちの社会を生きやすくすることにもつながる。

しじょう・ちえ
 早稲田大第一文学部卒。九州大大学院で博士号取得(比較社会文化学)。長崎大客員研究員などを経て2021年から現職。

討論

 報告者たちは長崎大RECNAの山口響・客員研究員をモデレーターに、「空白」を埋める上での課題をさらに討論した。

 山口 3人の報告は広島と長崎のさまざまな「空白」を提示したが、それらの「空白」を埋める取り組みは広島の方が進んでいるように見える。

 水川 市民、研究者、行政、メディアが密に連携したことが大きいのでは。例えば、動態調査の母体となった「爆心地復元調査」は広島大原爆放射能医学研究所(当時)とNHKが共に進めた。大学の研究所だけであれば、住民への呼びかけには限界がある。中国新聞としてもさまざまな取り組みをしてきた。

 山口 広島と長崎では、1977年の「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」(被爆問題国際シンポ)が翌年の国連軍縮特別総会で原爆被害を報告、発信することにつながった。現在、被爆地の声を国際的な軍縮プロセスにつなげる力が弱いように思える。

新しい知見へ被爆地が連携

 水川 数年前に原爆資料館が展示を全面リニューアルした際、基本的に参照したデータは約40年も前の79年刊行の「広島・長崎の原爆災害」だった。両被爆地が連携し、新しい知見を踏まえた「原爆白書」実現への流れが出てくるべきだ。被害実態を捉えることは、核兵器の問題を現在の問題として議論することにつながる。「核兵器の非人道性」を過小評価する日本政府に、資料活用などで責任を果たすよう求める必要がある。

 山口 長崎の航空写真を使った取り組みについては、原爆を落とした側の視点が内在化する危うさもあるのではないか。

 林田 現在、まさに議論していることだ。飛行機に乗り、きのこ雲の上から地上を見る感覚になってはいけない。一方、原爆は被害が大きく想像力の追いつかないところにあるからこそ、技術の力も借りていきたい。それにまつわる懸念について検討していく。

 山口 戦前・戦中の長崎の時代は、実際には太平洋戦争と植民地政策の時代。被爆前の写真が、ある日突然原爆が落とされて幸せな日常を奪われた、という誤った印象を与える恐れはあるか。

忘れてならぬ日本の加害性

 林田 戦時中の日本の加害性に触れずに原爆を語れば、学生にはむしろ違和感を持って受け止められる。戦争を繰り返さないことが、原爆が使われないことにつながる。私たちのプロジェクトにこの点を入れ込んでいく。

 山口 長崎のろう者の聞き書きが80年代まで遅れた背景を知りたい。

 四條 被爆体験証言が本格化したのは60年代以降。「市民が描いた原爆の絵」も70年代からだ。戦後すぐの時期は心も体も、人々の傷が生々しかった。生きるのに懸命だった。そんな中でろう者には、さらにタイムラグが生まれた。言語能力の問題もあるだろう。戦争中、ろう学校に十分通えなかったり、通えても言語能力を十分獲得できなかったりした。体験証言は手話通訳者によって初めて世に出た。

 現在の被爆体験継承の枠組みでは、比較的目が向けられにくいものがある。空白を考えることは地道な作業で、分かりやすさとは対極だ。そぎ落とされてしまうディテールを含め、多様な被害の記録を残す姿勢が大切なのではないか。

 山口 水川さんが取材で一番大変に思ったことは何か。これからどんな取材をしたいかも聞きたい。

 水川 死没者調査が広島市の調査であるため、分からないことの手掛かりは市外に多い。原爆供養塔の納骨名簿を手掛かりに沖縄県の石垣島に飛んだが、結局遺族ではなかったこともある。原爆犠牲者には、当然ながら46年以降に亡くなった人も多くいる。45年末から数年間の「空白」取材も、もっと深めたい。

 山口 林田さんのような被爆体験のない人が若い人に語り継ぐ上で気をつけていることは。

 林田 私自身が普段意識しているのが、自分は被爆3世だから取り組みを続けてきたのではない、ということ。今これが起きたらどうなるのかを想像しながら怒り、被爆者と活動を共にしてきた。代弁者としてではなく、あくまで自分として発言している。

 もうひとつは、戦争の文脈と被害の文脈が切り離して語られがちで、なぜこういう争いが起きたのかに目が向けられにくい構造があることだ。原爆は、戦争の中で落とされた。だから広島と長崎の原爆被害は、私たちが思っているのと同じ感覚で世界に伝わってはいない。戦争の中での位置付けを常に意識している。

異なる社会の人への想像力

 山口 「空白」を埋めようとする被爆地の営みから、ウクライナ侵攻について言えることはあるか。

 四條 原爆被害がもたらす傷は、爆心地からの距離だけでなく、社会的立場によっても違う。広島と長崎のように、ウクライナの人も一様でない。いろんな状況に置かれた人がいて、語られにくい被害がある。現在も、戦争が終わってからも続くはず。私たちとは異なる社会構造に身を置く人への想像力を働かせれば、お互いがつながることができると思う。

爆心地復元調査
 1960年代後半から広島大教授の故志水清さんらが主導し、原爆で消し去られた爆心直下の広島の街並みを戸別地図で再現しようと、元住民らも参加して行った調査。1軒単位で被害を詳細に記録した。ここで得られたデータを土台に、広島市が原爆被爆者動態調査を開始した。

吉永小百合さん原爆詩朗読 情感豊か 映像放映

 中国新聞創刊130周年記念企画として、俳優吉永小百合さんによる原爆詩の朗読映像が放映された。峠三吉「原爆詩集」から「序」、大平数子「慟哭(どうこく)」、栗原貞子「折づる」の3編を情感豊かに読み上げた。

 広島国際文化財団の支援を得て、6月下旬に東京都内のスタジオで事前に収録された映像だ。歳月を経て、原爆による被害を体験した人たちが少なくなる中、当事者ではない私たちが、残された「言葉」をいかに受け止め、次世代につないでいくか―。共に考える機会となった。

 吉永さんは映画「愛と死の記録」(1966年)のロケで訪れた広島で、原爆の傷痕に触れたという。さらに81年から放送されたNHKドラマ「夢千代日記」で胎内被爆者の芸者役を演じたのが縁で、ライフワークとして原爆詩の朗読を続けている。97年には12編の朗読を収めたCD「第二楽章」をリリースした。

 収録後のインタビューで吉永さんは、ロシア軍による侵攻で戦火の続くウクライナ情勢や、先月初めての締約国会議が開かれた核兵器禁止条約に触れ「いまが本当に一番大事なときだと思う」と強調した。

 被爆地広島の選出で「核なき世界」を掲げる岸田文雄首相に対し、「条約実現に尽力した(カナダに住む被爆者の)サーロー節子さんとも縁戚。締約国会議には何としても、オブザーバーとしてでも出てほしかった」と述べた。

 ロシアのプーチン大統領が核兵器使用をほのめかしていることにも言及し「現状を目の当たりにして、みんなこれは大変なことだ、阻止しなくてはいけないという気持ちになっていると思う」と指摘。政治家だけでなく私たち市民一人一人が核兵器廃絶に向け、前向きに行動していかなくてはならないと決意を語った。

 原爆詩朗読の映像は、26日から3カ月間、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで公開しています。

(2022年7月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ