×

連載・特集

被爆77年 家族の記憶 <1> 伝承の志 契機は露侵攻

母の苦難を埋もらせぬ

 「ピンクの骨が見えた。今でも親指は思うように動かんのんよ」。被爆者の木元八恵子さん(84)=呉市=が自宅のテーブルの上に左手首を差し出した。くっきりと残る肉がえぐれた痕。「え、今も動かないの…。知らんかった」。孫の柊一郎(しゅういちろう)さん(20)=同=が表情を曇らせた。

 八恵子さんの長男誠司さん(61)が、広島市の新制度「家族伝承者」になると決めたことをきっかけに集まった柊一郎さんたち。食卓を囲み、八恵子さんの被爆体験に耳を傾けた。

□追憶の涙

 八恵子さんは被爆当時7歳。原爆投下の2カ月前、母方の祖父母を頼り観音地区(現広島市西区)から牛田町(現東区)に疎開していた。あの日、寺に入った直後に強い光を感じ、ドーンという大きな衝撃を受けがれきの下敷きになった。「気付いたら空が見えた。必死にはい上がった」。腕の傷はその時に負った。

 親族やきょうだいの苦難にも話は及んだ。八丁堀(現中区)にいた伯父や逓信病院(同)で働いていた叔母たち3人は間もなく死亡し、祖父が近くの公園で荼毘(だび)に付した。家の前の川土手でセミ捕りをしていた弟2人は全身に大やけどを負った。上の弟はケロイドが消えず、いじめに遭って高校を中退。「かわいそうなかったね。私は幸せな方よ」。涙が頰をつたった。

 避難した口田村(現安佐北区)の学校での記憶も鮮明だ。広島二中(現観音高)の男子生徒が屋内に1人で寝かされていた。ハエがたかるのをふびんに思い、うちわで追い払ったが翌朝に姿はなかった。「親にもみとられず亡くなったんじゃろう」。校庭では多くの遺体が山積みになり、燃やされていた。

□子も協力

 今春に伝承者の養成研修に応募した誠司さん。4年前に夫を亡くして1人暮らしになった母を訪ねると、ぽつぽつと体験を語ってくれた。語り伝えようと思った契機はロシアによるウクライナ侵攻だった。プーチン大統領は核兵器の使用を示唆。「核兵器の恐怖をより身近に感じた。被爆者が減る中、母の記憶を埋もれさせたくない」と考えた。

 当初は迷った。仕事を抱えながら平日昼間の研修を受け、体験を原稿用紙25枚分約1万字に仕上げられるか。文章の得意な妹朋子さん(59)に協力を仰ぎ、さらに次の世代に受け継いでもらおうと柊一郎さんに声をかけた。2人の快諾に背中を押されたという。

 祖母の話を聞いた柊一郎さんは「心が痛い。投下直後だけでなく、その後も後遺症や差別で人々を苦しめる原爆は本当に恐ろしい」。出雲市から駆け付けた朋子さんは「私たちが存在すること自体が奇跡」と生き延びた母に感謝する。

 誠司さんは、八恵子さんの体験談を、被爆死やケロイドで苦しんだ親族の体験も交えた一家の歴史としてまとめるつもりだ。疎遠となった親戚にも接触し内容を深めたいと考えている。

 「身内だからこそ伝えられることがある。核兵器の廃絶や世界平和のために少しでも役立てればいい」。現在広島修道大(安佐南区)3年の柊一郎さんは伝承を見据える。うずもれかけていた被爆史が、世代を超えて紡がれ始めた。(余村泰樹)

家族伝承者
 被爆者の高齢化を受け、家族の協力で新たな証言の掘り起こしと継承につなげるため広島市が2022年度に設けた制度。被爆者の子や孫たち親戚関係にある人が原則2年間の研修後、広島平和文化センター(中区)の委嘱を受けて原爆資料館(同)などで修学旅行生や旅行者向けに講話する。1期生には広島、山口、福岡県、東京都の計54人が応募した。24年度の活動開始を目指している。

(2022年7月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ