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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 ハンセン病療養所の今

最後の一人まで見守る道を

 全国13の国立ハンセン病療養所の入所者が千人を割ったという。5月1日時点の平均年齢は87・6歳。瀬戸内3園と呼ばれる長島愛生園、邑久光明園(いずれも瀬戸内市)、大島青松園(高松市)は合わせて200人余りになった。療養所の取材を始めて15年になる筆者にとっても寂しさの募る数字である。

 離島長島に1930(昭和5)年開園した愛生園には最大2千人が暮らし、自治と処遇改善を求めてハンストに入る「事件」も戦前あった。戦後は光明園とともに「長島架橋」の運動を粘り強く続け、本土と結ぶ現在の邑久長島大橋を実現させる。国の誤った隔離政策に翻弄(ほんろう)されながらも、そこには入所者たちの手による一つの社会が築かれたのだ。

 光明園では太平洋戦争末期のオーストラリアで起きた日本兵捕虜暴動、カウラ事件の生存者でもある男性と出会った。大阪湾の中州にあった光明園の前身が、34年の室戸台風で壊滅した惨事を身をもって知る3人にも取材した。また愛生園では末期がんの僚友のために毎日ポタージュスープをつくるという女性の話を聞き、苦難の人生を支えるものは何か考えさせられた。

 昨年は国の隔離政策を違憲と断じた熊本地裁判決から20年の節目。現在はハンセン病問題基本法に基づいて国が責任を認め、入所者を最後の一人までケアする方向性が定まり、社会復帰も当然の権利として位置付けられる。だが、先月長野市で3年ぶりに開かれたハンセン病市民学会では「療養所の喫緊の課題」と題した分科会が設けられた。何が喫緊なのか。現地で取材した。

 一つには長引く新型コロナウイルスの流行が療養所に影を落としていることだ。光明園園長の青木美憲は「入所者の感染防止と外出や面会交流の自由をどう両立させるか」自問している。家族と離別したまま高齢化する彼らにとって園外への買い物バスは楽しみの一つ。生活の質(QOL)を保つことにつながる。

 いま一つは医師や看護師の確保が難しくなっている問題だという。厚生労働省との間で合意した職員定員維持の期限が2年前に切れており、一般の病院との給与格差も見過ごせない。人材難は入所者のケアに加えて、基本法に基づく療養所の「将来構想」にも影響する。内科や外科などの医療を地域に開放するビジョンが成り立たなくなるためである。

 さらに重大な変化は入所者自治会の活動が困難になっていることだ。青木は「命を懸けた彼らの闘いによって今の療養所がある」と語り、外部の委員を交えた人権擁護委員会を「人権の砦(とりで)」として機能させ、自治会を支援しなければならないと強調した。亡くなって遺骨になっても故郷に帰れないケースはいまだ後を絶たず、解決が急がれていよう。

 一方で療養所には歴史に果たす役割もある。1世紀に及ぶ隔離政策は膨大な公文書資料を残しているからだ。菊池恵楓(けいふう)園(熊本県合志市)は散逸を避けるべく20年にわたって園主導で整理を進め、ことし5月には歴史資料館の開館にこぎ着けた。分科会で発言した学芸員原田寿真によると、調査の結果、恵楓園には7198人の入所者がいたことが判明したが、一人一人の記録がハンセン病問題の実例そのものだという。

 長野県では昨年、明治時代に警察が県内の当時のハンセン病患者の名前などを載せたとみられる台帳がインターネット競売サイトに出品されていたことが明るみに出た。市民学会が出品者から回収したものの、流出のいきさつは分かっていない。新型コロナでも感染者や家族への誹謗(ひぼう)中傷が深刻な問題になる中、台帳流出は極めて影響が大きい―と全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)は抗議声明を出している。

 先日、備前市日生港から愛生園へチャーター船で上陸する見学ツアーに同行し、50人を超す参加者の数に驚いた。療養所と社会の溝は埋まりつつあるが、患者台帳を平然と売りに出して恥じない何者かが一方でいる。偏見を恐れずに暮らせる社会は道半ばだ。(敬称略)

(2022年7月28日朝刊掲載)

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