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連載・特集

被爆77年 家族の記憶 <2> 変色の指輪に祖父の愛

悼む心 再婚後も貫く

 かつて左官町と呼ばれた広島市中区本川町の一角にある善応寺。その境内に、一帯の原爆死没者のため被爆6年後に建立された供養塔がある。「ああ、ここですね」。新田英明さん(57)=西区=が、傍らの銘板に刻まれた3人の名前を見つめる。新田タメ子、孝洋、正紀―。英明さんの祖父孝作さん(1994年に89歳で死去)の妻と息子2人の名だ。

 左官町で鋼材店を営んでいた孝作さん。妻タメ子さん=当時(39)、崇徳中2年の長男孝洋さん=同(13)、光道国民学校(現在は廃校)5年の次男正紀さん=同(11)=の4人家族だった。

□子の成長

 「正紀は変わらずちめ(おちゃめ)さんで皆(み)なを笑(わ)せて居ます」。タメ子さんが被爆3年前に親戚へ送った手紙からは、温かな家庭の姿が浮かぶ。孝洋さんについても「早(は)や五年生ですので中学入学の心配で毎日、勉強におわれて」「すこしは勉強のよくが出まして安心です」と、子の成長を見守る親の心境を記す。

 4人での暮らしは原爆によって断たれた。自宅は爆心地からわずか約450メートル。タメ子さんと正紀さんは在宅していて亡くなったとみられる。正紀さんは4月から現在の北広島町に学童疎開していたが、寂しがっていたのをふびんに思い、数日前に連れ帰ったばかりだった。

 孝洋さんは八丁堀(現中区)での建物疎開作業に動員されていた。現場にいた1、2年生514人は全滅に近い状態だった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)は「面相などによる識別もほとんど不可能」「ごく少数の者が父兄などの手によって収容されたに過ぎなかった」と惨状を伝える。

 自宅にいなかったため一命を取り留めた孝作さんは戻らない孝洋さんを捜し歩いた。諦めかけたが「子どもが呼んでいるような気がして」と向かった尾長町(現東区)で、大やけどを負い亡くなっている孝洋さんを見つけた。「熱い思いをして死んだろう。かわいそうなことをした」。孝作さんは折に触れそう口にしたという。

 1人残された孝作さんは死をも考えたと、後に家族に明かしている。「しかし自分が死ねば誰が家族を供養するのか。つらいけれど生きようと思った」とも話していた。52年に再婚し、59年においを養子に迎えた。孫の英明さんが生まれたのはその6年後だった。

□生涯保管

 英明さんの記憶に残るのは、孝作さんの免許入れにいつも入っていた3人の小さな写真だ。「家族旅行でも、旅先で写真を取り出しては景色を見せてあげていました」。孝洋さんと正紀さんの学生服、タメ子さんの防空頭巾などの遺品も生涯、大切に保管した。孝作さんは94年、被爆50年を前に89歳で亡くなった。

 英明さんは現在、受け継いだ西区の自宅に暮らす。遺品を整理する中で学生服などは全て原爆資料館(中区)に寄せたが、3カ月ほど前、仏壇から「タメ子」と記された封筒が新たに見つかった。中には黒く変色し宝石がひび割れた指輪と髪留め。祖母が最期に身に着けていたものだろうか。祖父の悲しみがあらためて胸に迫った。

 土木会社を営む英明さんは、多忙な仕事の合間を縫ってほぼ毎週の墓参を続ける。「思い出してあげることが一番の供養のように思えて」。生涯にわたり家族を悼み続けた祖父の思いをつなぐ。(明知隼二)

(2022年7月28日朝刊掲載)

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