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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山下拓治さん―弟と妹 自らの手で火葬

山下拓治(やましたたくじ)さん(92)=広島市安芸区

ジュニアライターの孫へ被爆体験伝える

 山下拓治(たくじ)さん(92)は、まだ幼(おさな)かった妹と弟を原爆に奪(うば)われました。思い出すだけでもつらく、これまで心に閉(と)じ込めてきました。今回、中国新聞ジュニアライターとして活動する中学2年の孫、裕子(ゆうこ)さん(13)たちに伝え残そうと心に決め、あの日の出来事を振(ふ)り返(かえ)りました。

 両親と3人の弟妹と一緒(いっしょ)に、船越(ふなこし)町(現安芸区)で暮(く)らしていました。当時は15歳(さい)で、山陽中(現山陽高)の3年生。舟入(ふないり)川口町(現中区)の桐原(きりはら)容器工業所に動員され、火薬を入れるたるを作っていました。

 8月6日も朝から工場にいました。たる作りに必要な部品を探(さが)そうと、先輩(せんぱい)と2人で木造倉庫に入った時です。突然(とつぜん)、天井(てんじょう)が落ちてきました。近くに鉄製テーブルが逆さまにして置かれており、脚(あし)が天井のはりを支えたため下敷(したじ)きにならずに済(す)みました。

 爆心地から約2・4キロ。つぶれた倉庫の外に出ると、多くの生徒が倒(たお)れていました。市の中心部から着物や皮膚(ひふ)が焼けた人たちがぞろぞろと歩いてきます。水を求めて工場の前を流れる川に入り、そのまま流されていく人もいました。

 先生から解散の指示を受け、山下さんは自宅(じたく)へ向かいました。燃える街を避(さ)けて、山陽線の線路の上を歩きながら夕方に帰宅(きたく)。窓(まど)ガラスは割(わ)れていましたが、父岩松(いわまつ)さん=当時(47)=と弟千里(ちさと)さん=当時(14)=は無事でした。

 しかし、継母(けいぼ)マサヨさん=当時(32)=と妹睦子(むつこ)さん=当時(5)、弟宏司(ひろし)さん=当時(2)=は全身に大やけどを負いました。建物疎開(そかい)作業のため市内に出かけ、爆心地から約1・7キロの鶴見(つるみ)橋(現中区)付近で被爆したのです。

 山下さんは看病(かんびょう)に追われました。薬はなく、ガーゼに食用油を染(し)みこませて傷口(きずぐち)に当てます。張り替(か)えるたびに、肉が一緒に剝(は)がれました。「痛(いた)そうで痛そうで、たまらなかった」。あまりの臭(にお)いに、一緒に看病していた岩松さんは何度も倒れ込んでいました。終戦となった15日、睦子さんは息を引き取りました。その6日後、宏司さんも亡(な)くなりました。

 山下さんは、2人の亡きがらを納(おさ)めた棺(かん)おけを自ら担(かつ)ぎ、家の裏山(うらやま)にあった火葬場(かそうば)へ運びました。しかし、ほかにたくさんの遺体(いたい)が運び込(こ)まれており、使うことができません。穴(あな)を掘(ほ)り、一晩(ひとばん)かけて焼きました。弟と妹の体は、炎(ほのお)の中で縮(ちぢ)んだり動いたりしました。「自分の手で肉親を焼く悲しみは、忘(わす)れられません」

 広島原爆戦災誌(し)によると、爆心地から約7キロの船越町には次々と負傷者(ふしょうしゃ)が運ばれ、亡くなると瀬野(せの)川の堤防(ていぼう)で焼かれました。6日朝から市内へ出勤(しゅっきん)したり、建物疎開で壊(こわ)された家の廃材(はいざい)を集めに出ていたりした地元住民も多くいました。

 山下さんも亡くなった住民の火葬を手伝いました。煙(けむり)が家まで届(とど)くため、何度も吐(は)き気(け)に襲(おそ)われます。当時は薪(まき)が不足していました。翌朝(よくあさ)見に行くと、火葬が十分でなかった遺体(いたい)を野良犬がくわえていました。恐(おそ)ろしい光景は、今も目に焼き付いています。

 戦後はマサヨさんの看病をしながら学校に通い、放課後に自宅裏の山を開墾(かいこん)してサツマイモを育てる日々が続きました。広島工業専門(せんもん)学校(現広島大工学部)を卒業して東洋工業(現マツダ)に就職(しゅうしょく)。自動車部品の設計図を作る部署(ぶしょ)で働きました。マサヨさんは、98歳まで生きました。

 これまで家族にも体験を語ってこなかった山下さん。重い口を開くきっかけをくれたのは、孫の裕子さんです。「被爆者を取材して平和を伝えたい」とジュニアライターを続ける姿(すがた)に心を動かされました。「未来を担う裕ちゃんたちは、核兵器(かくへいき)じゃなくてペンを持って平和を訴(うった)え、守り続けてほしい」と希望を託(たく)します。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

祖父の悲しみ 心に刻む

 祖父が弟や妹を失ったことは知っていましたが、自分たちの手で火葬(かそう)したと聞いたのは初めてです。その悲しさは、想像できるものではありません。私(わたし)が毎日家族と生活をして、話したり、時にはけんかをしたりすることは、幸せだと感じました。祖父のようにつらい思いをした中学生が77年前にいたことを忘(わす)れず、毎日を大切に過ごしたいです。(中2山下裕子(ゆうこ))

戦争の悲惨さ考えたい

 山下さんは奇跡的(きせきてき)にけがをしませんでしたが、待ち受けていたのは母親たちの看病(かんびょう)でした。ガーゼ交換(こうかん)のときに「剝(は)がすと肉がついてくる。物資も少なく、ガーゼを洗(あら)って再利用した」と聞き、無残な姿(すがた)となった家族を手当てした山下さんの大変さを感じました。このような経験を多くの人に伝えて、戦争の悲惨(ひさん)さについてみんなで考えたいと思いました。(中3森美涼(みすず))

 「子どもは勉強をするのではなく働くことが普通だった」「敵の飛行機が落ちていくのを見て、みんなで手をたたいて喜んだ」という話を聞き、「当たり前」が世の中に及ぼす影響は、とてつもなく大きいと思いました。学校に行って勉強をしたり、日々恐怖を感じることなく生活できたりするという、今のさまざまな「当たり前」は、とても大切なものだと思いました。戦争や被爆体験を聞く機会が減っています。今、直接体験した被爆者たちからお話を聞くことができる私たちが、「戦争は絶対悪」という事実を世界に発信する必要があると改めて強く感じました。(高2三木あおい)

 山下さんが「当時は日本が戦争に勝ってほしいと思っていた」と聞いて、衝撃的でした。また、敵機が日本軍の大砲に撃たれて落下した瞬間は、みんなで「やった!」と手でたたいて喜んでいたと話していました。グラマン(米軍機)の操縦席に乗っていた男性が、笑いながら山下さんたちの近くを銃で撃ってくる瞬間を目の当たりにした時、日本は負けると感じたそうです。

 そんな大変な中、楽しかったこともあるそうです。学徒時代に時々、「江波団子」と呼ばれる団子が支給され、友達と一緒にストーブの上で焼いて食べていたことが思い出だと言います。

 山下さんが戦争中に感じていたことは、今の平和な時代に生きる私たちが抱く感情とずいぶん違っていたようです。戦争や被爆体験を聞いた私たちが、できるだけ多くの人に伝えることが大切だと思いました。(中1佐藤那帆)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2022年8月1日朝刊掲載)

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