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連載・特集

被爆77年 家族の記憶 <6> 核の非道さ 伝える使命

曽祖父の救護経験 胸に

 「被爆した曽祖父の経験に向き合って以来、自分に何ができるのかを考えるようになりました」。6月、オーストリア・ウィーンであった核兵器禁止条約の第1回締約国会議に参加した早稲田大2年の高垣慶太さん(20)=広島市安佐南区出身。核兵器廃絶の運動に携わる原点は、被爆直後の広島と長崎で負傷者の救護に当たった2人の曽祖父の存在だという。

 広島の曽祖父は谷岡只雄さん=当時(52)。現三次市の開業医だった。医師や看護師たちで編成する地元医師会の救護班として原爆投下翌日の8月7日に広島入りし、住吉橋(現中区)近くの救護所で治療に当たったという。

□無念思う

 1961年刊行の「広島原爆医療史」によれば、市内や近郊に仮設された救護所は住吉橋を含め53カ所。市内の医師は約300人の9割が被災したとの記録もあり、市外から駆け付けた救護班の役割は大きかった。しかし「持ち込んだ薬はすぐに尽き、助かりそうな命の選別をせざるを得なかったそうです」と高垣さんは語る。

 長崎の曽祖父磯野駿さん=同(41)=もまた開業していた現長崎県南島原市から、被爆当日の8月9日のうちに出身大学の長崎医科大(現長崎大医学部)に駆け付けた。校庭で救護活動をしたが、治療を待つ人たちは力尽きて息絶えていったという。

 「医師として、目の前の人を助けられないのは苦しかったと思う」。高垣さんは、核被害の現実に直面した曽祖父たちの胸中を推し量る。2人は地元に戻ってからも医院でけが人を受け入れ治療を続けたと聞く。

□模索続く

 2人のことは幼い頃から聞いてはいたが、強く意識したきっかけは中学3年の校内スピーチ大会だった。核問題への強い意識はまだなかったが、思い立って曽祖父の経験を取り上げた。スピーチは評価され、クラス予選を勝ち上がって全校生徒の前で話す機会も得た。「心の中にとどめているだけでは、記憶はいつか消えてしまう」と自分なりに家族の被爆を引き受ける「使命」を意識し始めた。

 進学した崇徳高(西区)では新聞部に途中入部し、存廃に揺れていた被爆建物旧陸軍被服支廠(ししょう)(南区)や、前身の旧制崇徳中の被害を精力的に調べた。その活動の中で出合ったのが赤十字国際委員会(ICRC)だった。当時のサビオ駐日代表にも取材した。医療体制すら破壊する非人道的な兵器として核兵器の禁止を訴えるICRCの考え方に曽祖父の経験が重なった。

 大学進学と同時に、ICRC駐日代表部(東京)にボランティアとして飛び込んだ。イベント企画などに携わる一方、6月の締約国会議では、公式な意見表明の一部を若者代表として任された。核実験被害や被爆者差別などにも触れ「この会議を、核兵器がもたらした被害を救済する方策を見いだし共有する機会にしてほしい」と英語で訴えた。

 国際会議の大舞台での発表。「あのとき、スーツの内ポケットに曽祖父の被爆者健康手帳を入れていたんです」。高垣さんはそう明かし、受け継いだ小さな手帳を見せてくれた。谷岡只雄さんが、8月7日に広島で入市被爆した事実が記されていた。

 「曽祖父だけではなく、曽祖父が救えなかった人たちの思いも背負って進みたいと思っています」。核兵器のない世界に向け、自分に何ができるのかはまだ模索中だ。それでも「家族の記憶」というよって立つ足場は決して見失うことはない。(明知隼二)

 連載「被爆77年 家族の記憶」は終わります。

(2022年8月1日朝刊掲載)

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