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連載・特集

被爆77年 家族の記憶 <5> 生き別れ 対面かなわず

他界の兄 手記で「再会」

 平和記念公園(広島市中区)にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の閲覧室。6月下旬、モニターに映し出された手書きの被爆体験記に食い入るように見入る森安利明さん(77)=京都府城陽市=の姿があった。「これが兄の手記ですか」。生き別れ、顔も知らない兄正明さん=当時(19)=との77年ぶりの「再会」だった。

□願い

 発端は中国新聞社に届いた森安さんの手紙だった。「兄を捜していただけないでしょうか」。原爆で父愉開(ゆかい)さんを亡くし、兄とは生き別れたという。「私の人生もそう長くない。命のあるうちに兄に会いたい」と切実な願いがつづられていた。

 森安さんによると、一家4人は現在のJR横川駅に近い打越町(現西区)に暮らしていた。森安さんは生後約5カ月の乳児で母綾野さんがとっさに覆いかぶさり守ったという。母は戦後、森安さんを連れ郷里の現倉敷市に移ったが、兄は広島にとどまったようだった。

 母は1978年に亡くなるまで、父や兄について全く語らなかった。「父が被爆死し、兄が1人いた。それぐらいしか分からないんです」。広島の地元紙を頼った事情をそう語った。

 しかし再会の希望は早々についえた。手紙を送ったのを機に自ら戸籍関係の書類をあらためて調べた結果、正明さんは2020年に亡くなっていた。「せめてご遺族に会えないか」。落胆する森安さんの意向を受け記者は調査を続けた。

 とはいえ手掛かりは限られる。打越町は太田川放水路の整備で大きく形を変えた。一家のかつての地番を新旧の地図で調べると、やはり今は放水路の一部となっていた。その後も取材を重ね、記者は今年6月、市内に住む正明さんの家族に接触することができた。

 家族は突然の訪問に応じてくれたが77年の隔たりは大きかった。「(正明さんに)弟がいたとは全く聞いていない」という。森安さんとの面会も「申し訳ないですが時間がたち過ぎていて。お会いしても話せることはないように思います」と丁重に断りを受けた。

□後悔
 「私が動くのが遅過ぎたんです」。記者の報告を聞いた森安さんのため息に、深い後悔がにじんだ。倉敷から京都の大学に進学。卒業後は金融機関に就職し、家に帰る間もないほど猛烈に働いた。「このまま何も知らなくていいのか」。ようやくそう思えた時には、定年退職してからも随分時間がたっていた。

 ただ、家族の被爆状況についてはその一端が分かった。正明さんが95年の旧厚生省の被爆者実態調査で手記を残していたためだ。

 正明さんは打越町で被爆し、戻らない父を捜し歩いていた。「人間とは思えないような姿の死体がゴロゴロして人をまたいでいくのがやっと」。父がいたはずの楠木町(現西区)の「誉航空軽合金」の工場を再度訪れたとき、倒壊した倉庫の下敷きとなって亡くなっているのを見つけた。

 何カ所も書き直した跡が残る手記には、近所の人と助け合ってバラック暮らしをしたこと、徐々に分かった被爆の影響に恐怖したことも記されていた。「少しでも当時の状況が分かってありがたかった」と森安さん。未曽有の惨事によって引き離され、再会もかなわなかった家族の被爆の記憶。一文字一文字を確かめるように、その記録に向き合った。(明知隼二)

(2022年7月31日朝刊掲載)

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