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連載・特集

被爆77年 家族の記憶 <4> 疎開先 両親の迎えなく

自宅焼失 親戚宅を転々

 「随分人に助けられてきました。自宅も何もなくなりましたから」。田中幸七さん(87)=広島市安佐北区=は、かつて家族で暮らした中区鉄砲町に立った。被爆当時は上流川町と呼ばれ、そこに両親が営む「田中小鳥店」もあった。爆心地から1キロ弱。原爆により一帯は壊滅し、両親と兄、姉の4人を亡くした。

 被爆前は父清一さん=当時(51)=と母栄さん=同(50)、きょうだい5人の一家7人で暮らしていた。きょうだいは12人だが7人は徴兵されたり、既に戦死したりしていた。小鳥店は軍に伝書バトを納入していたこともあり、暮らし向きは豊かだったという。「福屋百貨店でかくれんぼをして遊んだ」と懐かしむ生活は、学童疎開で一変した。

□離散

 1945年4月、空襲に備える国の政策で、広島市の国民学校3~6年の児童の多くが広島県北部に避難した。集団疎開した児童は5月時点で8365人に上ったとされる(新修広島市史、58年刊)。幟町国民学校(現幟町小)5年だった田中さんも2歳下で8歳だった妹米さんと一緒に親元を離れ、壬生町(現北広島町)の寺で級友と暮らした。

 8月6日、運動場の草取りをしていると空がパッと光り、広島方面に雲が立ち上るのが見えた。翌日にはトラックで町内に運ばれてきたけが人を見た。「何が起き家族はどうなったのか。何も分からなかった」と当時の不安を振り返る。

 終戦前後から親や親戚に連れられて帰る児童がいたが、田中さんの両親は消息不明。9月に入っても迎えがない中、疎開先の寺近くの写真店主が「親がいないならうちに」と2人を引き取ってくれた。結果的にはその2週間ほど後、海軍予科練から戻った当時17歳だった兄省三さんが迎えに来た。田中さんは「あの親切を忘れたことは一度もない」と今も感謝する。

□苦難

 兄に連れられて戻った広島は一変していた。自宅は焼失。両親は被爆後に知人宅に身を寄せたが、9月上旬に被爆の影響で寝込み息を引き取っていた。山陽中の兄源郎さん=同(15)=と広島女学院高女の姉房子さん=同(13)=も死亡。7歳だった末の妹千恵子さんだけが被爆しながら命を取り留めていた。

 省三さんもまだ17歳。弟妹を養う当てがあるわけではなかった。妹2人は養女に引き取られ、省三さんは仕事を求め東京へ。田中さんは2年ほど県内外の親戚を転々とした。終戦直後の食べるにも困る時代。中学進学を諦め働こうと覚悟した頃、復員した当時24歳の兄四郎さんから連絡が入り「学校ヘ行け」と言われた。

 四郎さんの支援で2学期から中学に通った。1人暮らしの下宿先や近所の人に助けられ、高校まで卒業。医療関係の営業職に就き、66年に妻光子さん(83)と結婚した。娘に恵まれ、今春には米寿の祝いもした。

 原爆で両親を失った孤児は4千~5千人に上ったとの推定もあるが全容は不明で、語りたがらない当事者も多い。田中さんもまた「周りの人や兄に助けられた」と言うほかは苦労をあまり口にしない。光子さんは「1人で耐えた時間も長かったはずなのにそう感じさせない。幸運もあったのでしょう」と代弁する。

 その光子さんもまた、終戦翌年に旧満州(中国東北部)から一家で辛くも引き揚げ、戦後は窮乏に耐えた。「お互いよく生きてきたものです」。夫婦がそれぞれに背負った苦難と周囲の支えを振り返った。(明知隼二)

(2022年7月30日朝刊掲載)

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