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核兵器 許していいのか 娘亡くした被爆法曹 故正木さん 法的禁止 現代に問う

 原爆で娘を亡くし、核兵器の使用や製造の法的禁止を訴えた広島県出身の被爆法曹がいた。広島控訴院検事局(現広島高検)検事長を務め、死刑廃止論者としても知られた正木亮(あきら)さん(1971年に79歳で死去)。この爆弾を戦争の方法として許していいのか―。惨禍を経験した法律家が残した問いは、核拡散防止条約(NPT)再検討会議の議論にも通じる。(明知隼二)

 玖波村(現大竹市)出身の正木さんは1945年4月、東京から広島に赴任。爆心地から1・4キロとなる現広島市中区上幟町の官舎に暮らした。同行した次女倭子(しずこ)さんは、同町の広島女学院専門学校(現広島女学院大)1年に編入した。

ピアノ下に白骨

 正木さんは56年の自著「志願囚」に、あの日の状況を記す。倭子さんは体調が優れなかったが、朝礼の伴奏のため登校。正木さんは玄関で支度中だった。「ただ光ったような気がしただけである」。気付くと官舎の下敷きとなっており、はい出すと一帯は炎に巻かれつつあった。娘の身を案じたが学校には近づけず、川に飛び込んで迫る火炎をしのいだ。

 火災が落ち着いた後、学校跡などを捜し歩いた。「恥ずかしさもなかった。外聞もなかった」「しいちゃーん!倭子!おとうさまだよう!」。1週間後、焼け落ちた学校のピアノの下から娘の白骨を見つけた。

 「亮おじさんは妻を早くに亡くし、家族への思いは特に強かった」。交流があった親類の孝虎さん(87)=東京都=は、正木さんの人柄を振り返る。「かわいがっていた倭子姉さんを亡くしどれほどつらかったか」

「地球より重し」

 正木さんは46年、公職追放となり弁護士に転じた。戦前から、受刑者の処遇を調査するため自ら志願して獄中生活を送るなど、法律家として人道を重んじていた。戦後は死刑廃止を唱え、娘を亡くした体験から核兵器禁止も訴えた。

 「志願囚」では「広島二十万人の人々を殺したこの一発の投弾。これをただ戦争の一方法であるから已(や)むを得ないとして葬り去ることができるであろうか」と核兵器の法的禁止を主張。68年の論集でも「一人の生命の尊貴ということを社会に徹底させることから始めなければ」と説いた。

 再検討会議はロシアのウクライナ侵攻や核兵器禁止条約を巡る各国の立場の違いから難航必至だ。孝虎さんは「亮おじさんの訴えは切実な体験からだった。核兵器が何をもたらすかを踏まえて議論を」と願う。

 大竹市の玖波中には68年に建立された正木さんの顕彰碑があり、自筆をもとに「生命は地球より重し」と刻む。今夏に訪れた親類で市内の団体職員暁丈(あきたけ)さん(42)は「亮さんが最も伝えたかったメッセージだと思う」。人道を大切にし、死刑と核兵器の廃絶を訴えた法曹をしのんだ。

(2022年8月2日朝刊掲載)

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