最期語る血染めシャツ 昨春 原爆資料館に寄贈 帰らざる児を大声で叫びたき気持あり
22年8月5日
日記に父の悲しみ
原爆の熱線に焼かれた少年の最期に、父親が着せたシャツが残されていた。細かなストライプが入った大人サイズのシャツには、血や塗り薬の染みが生々しく残る。父親が戦後に癒えぬ悲しみをつづった自筆の日記も広島市西区の遺族宅に現存し、原爆が家族にもたらした苦しみを今に伝えている。(明知隼二)
被爆死したのは、広島市立中(現基町高)2年だった桧垣浩さん=当時(14)。1945年8月6日、同級生や2年生と一緒に、爆心地から約900メートルの小網町(現中区)へ建物疎開作業に動員されていた。父の兵市(ひょういち)さん(73年に79歳で死去)が、市の「原爆体験記」(50年刊行)などに寄せた手記に親子の別れをつづる。
あの日、兵市さんは、職場の疎開先だった己斐町(現西区)の善法寺にいた。原爆さく裂後、比治山に近い皆実町(現南区)の自宅を目指したが、市中心部の火災に阻まれ寺に戻った。そこに、浩さんが自力で逃れてきていた。横たわる息子は顔や腕、上半身に大やけどを負い、「皮を剝がれた兎(うさぎ)のやうで、どんなに見ても助からぬ命だと直感した」。
兵市さんは半裸の浩さんに大人サイズのシャツを着せ、口移しで水を飲ませた。「お父ちゃん、眼(め)が見えないのです」「胸が苦しい」…。手当てのかいなく、8月6日の夜を越せなかった息子を、兵市さんは翌日、自ら火葬した。
「ひどい亡くなり方をしたと、父はよく悲しんでいました」。浩さんの弟の峻(たかし)さん(86)=西区=は戦後の兵市さんの姿を思い返す。自身は原爆投下時、現庄原市に学童疎開していて被爆を免れた。父のその悲しみを伝える被爆2年後の日記を、自宅に保管してきた。
47年8月6日、兵市さんは平和記念式典の前身の第1回平和祭が開かれる中、小網町の寺であった市立中生徒の慰霊祭に参列したと記す。「帰らざる児(こ)を大声で叫びたき気持あり」。8月31日には笑みを浮かべた浩さんの絵を添え「この心の傷手(いたで)はいつとれるか」「帰って来ればと思ふ様(よう)なお伽(とぎ)話のやうなことを考えたりする」とやりきれない親心を書き込んだ。
兵市さんの妻ヨシノさんは、被爆時のけががもとで49年に死去。兵市さんは転居を重ねたが、紙箱に納めた愛息の血染めのシャツを手放すことはなかった。死後は峻さんが受け継いだが、自らも年を重ね「多くの人に見てもらえるなら」と、昨春に原爆資料館(中区)に寄贈した。
峻さんはこれまで家族の被爆を語っておらず、資料館にも寄贈者名は非公開とするよう依頼していた。それでも「兄を知っているのはもう私しかおらんから」と実名での取材に応じた。
「たわいない話ですが」と、峻さんはズボンの右裾をめくって、すねの小さな黒い点を記者に見せた。「幼い頃のけんかで兄に鉛筆で刺されて、今も芯が残っとるんです。取らずに残しとるんです。兄のだから」。理由も覚えていないけんかの痕。いつも気に掛けてくれた兄がいた、ささやかな証しを刻んでいる。
(2022年8月5日朝刊掲載)