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原爆生き延びた絵画 広島の高田さん保管 投下前の街に豊かな文化芸術

 原爆で両親と長兄を失った高田勇さん(90)=広島市南区=の手元には、父が収集した絵画が奇跡的に残された。近年、それらは後に「原爆の図」で有名になる丸木位里(1901~95年)をはじめ、広島の美術史を語る上で欠かせない画家の作であることが分かった。貴重な作品と高田さんの記憶からは、広島画壇の隆盛と芸術を愛した市民の面影が浮かぶ。(西村文)

 絵画は掛け軸に仕立てたものや色紙など約10点。長年自宅に保管していた高田さんが、中区の頼山陽史跡資料館に持ち込み、作者など詳細が判明した。

 うち半数を占めるのは、広島を拠点にした日本画家・中島晃璋(こうしょう)(生没年不詳)の作。端正な筆で描かれた「猛虎図」は確かな力量を感じさせる。「晃璋の実際の絵を見たのは初めて」と同資料館の花本哲志主任学芸員。作品の多くは原爆で失われたと推測される。

 中島は、東京と広島で活躍した日本画の大家、田中頼璋(らいしょう)(1866~1940年)の門人で、昭和10(1935)年に市内で個展を開催した記録が残る。戦後の消息は不明だが、高田さんの記憶から、爆心地から1キロ弱の鉄砲町(現中区)に住んでいたことが分かった。

 伸びやかな墨のタッチで鐘楼のある風景を描いた一枚は、位里の作であることが判明。作品を調査した泉美術館(西区)の永井明生学芸員によると、位里が好んで描いた三滝寺(西区)の鐘楼で、墨による実験的な表現を試みていた35年ごろの制作とみられる。永井学芸員は「画業をたどる上で貴重な作品だ」と話す。

 里山の春を軽やかに表現した日本画「若葉」は、佐伯町(現廿日市市)出身の末川凡夫人(ぼんぷじん)(1905~61年)の筆だった。戦前から位里と親交があり、洋画団体・春陽会に入選するなど活躍。原爆で妻子4人を失った後は、放浪と失意の中で創作を続けた。

 77年前の夏―。広島高等師範学校(現広島大)付属中1年だった高田さんは、学徒動員で農業に従事するため原村(現東広島市)にいた。8月6日の朝、帰省のため広島行きの汽車を待っていた八本松駅で、山の合間に立ち上るきのこ雲を見た。

 損保会社の広島支店次長だった父の肇さん(当時52歳)は、鉄砲町の社宅で即死。炎上する家屋から逃げ延びた母と長兄は、1カ月後に原爆症で相次いで亡くなった。一方、絵画は助かった。位里の鐘楼の絵は42年、東京の親戚にもらわれ、晃璋と凡夫人の作品は原爆直前に南段原町(現南区)へ移していた。

 「父に連れられ、近所だった晃璋さんの家をよく訪れていた」。高田さんは原爆投下前の日常を鮮明に記憶している。2階の8畳間には画家が集い、即興で描く「席画」が催されていた。見物客は絵の出来栄えに歓声をあげ、競って買い求めていたという。

 「戦前の広島では相当数の画家がいた。多くの人が日常的に絵を買い、画家を支援していた」と花本主任学芸員はみる。高田さんの元に残る絵画からも「伝統的な日本画から新しい創作まで、市民が身近に芸術を楽しんでいたことが分かる」。

 作品の一部は、2014年に同資料館と、20年に三次市の奥田元宋・小由女美術館でそれぞれ開催された二つの特別展で展示された。「原爆によって豊かな広島の文化芸術も奪われたことを、若い人たちに知ってもらいたい」と高田さんは願う。

まるき・いり
 1901年、安佐郡飯室村(現広島市安佐北区)生まれ。23年に上京して短期間、田中頼璋に師事。広島に帰郷、再上京を経て独自の水墨画を追究した。41年、洋画家の赤松俊子(丸木俊)と結婚。原爆投下の数日後に広島に入り、夫妻が見た被爆直後の惨状を基に「原爆の図」を共同制作した。

(2022年8月5日朝刊掲載)

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