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50日の人生 伝える証し 広島の佐伯さん 胎内被爆した姉の「妊産婦手帳」

2歳兄も失い「理不尽」

 広島の被爆2世の佐伯正夫さん(70)=広島市中区=は、胎内で被爆し、生後50日で亡くなった姉の節子さんの成育を記した「妊産婦手帳」を両親から大切に受け継いできた。被爆と終戦の混乱の中で遺影はなく、戸籍にも載らなかった姉の唯一の「生きた証し」。兄禎昭さん=当時(2)=も原爆で失った。被爆から77年の6日、会えなかった兄と姉を思い、自宅で静かに祈る。(明知隼二)

 「これだけです。姉が生きた証しは」。正夫さんは大きく「節子」と書かれた手帳を示した。母は芳枝さん(2021年に100歳で死去)。中には1945年8月29日の誕生や、「母児共健康」などの所見が記録されていた。一緒に残されていた父文造さん(15年に101歳で死去)の回想ノートからは、夫妻の穏やかな遺影から想像できない凄絶(せいぜつ)な体験が浮かぶ。

 45年8月6日、文造さんは吉島本町(現中区)の勤務先で被爆した。身重の芳枝さんは禎昭さんと共に倒壊した打越町(現西区)の実家にいたが、軽傷だった。家族は3人そろって15日の終戦を迎え、2週間後には節子さんが生まれた。

原因不明の血便

 喜びもつかの間、禎昭さんに血便の症状が現れた。「オムツシカエテ」と泣く子を医者にみせても原因不明。「ドクダミが効く」と聞けば煎じて飲ませ、評判のきゅうも据えたが「自然に衰弱死するのを待つ様な事でした」。

出生届も出せず

 10月16日夜、「私と芳枝が抱いてやる中に禎昭はとうとう死にました」。悲嘆に暮れた翌朝、節子さんも様子がおかしい。文造さんがおぶって近くの診療所に急いだが医者は不在。帰宅すると「私の背中で冷たくなって死んで居ました」。被爆から2カ月余、夫妻は2児を失った。生活や看病に追われ、節子さんの出生届も出せていなかった。

 「身をもがれる思いだろう」。自らも3児の父である正夫さんは両親の苦悩を思う。文造さんは「禎昭と節子は何処」と取り乱す芳枝さんを慰め、自身も悲しみを「歯を食いしばって」耐えた日々を書き残した。

 46年に生まれた次女が、芳枝さんに笑顔を取り戻させた。アルバムを開くと、赤ん坊を抱く芳枝さんの写真に「ようやく立直り始めた」との文造さんのメモが残る。さらに三女と正夫さんの2児に恵まれ、営んだ酒店も成功した。ただ、家族の営みを築き直した後も、夫妻は正夫さんたちに亡き兄姉のことを語り続け墓参を欠かさなかった。

 そんな夫妻の姿が97年9月の中国新聞夕刊に刻まれていた。彼岸の街の表情を伝える写真入りの短信記事。「原爆で亡くなった二人の子供の供養に来ました」と寺での取材に答えていた。被爆から52年。悲しみも、新しく得た喜びも生き抜いての一言だった。

 正夫さんは16年、記録に残すため母の体験をあらためて聞き取った。「節子が生きたことを手帳と一緒に残したい」「私のような体験をする母親が出ないよう願う」。思いをくみ、手帳を近く原爆資料館(中区)に寄贈するつもりだ。「親から子を奪う原爆の理不尽さを手帳が語り続けてくれる」と信じている。

(2022年8月6日朝刊掲載)

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