×

ニュース

父へのはがき 生きた証し 輜重隊で被爆死した米本栄さん 7月26日消印 山口に現存 部隊の日常記す

 広島市中区のサッカースタジアム建設地で昨年出土した旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」施設の被爆遺構。隊に所属し被爆死した米本栄さん=当時(25)=が、被爆の約1週間前に現在の山口市に住む家族へ送ったはがきが残っていた。今も遺骨が見つからない中、遺族にとって栄さんの生きた証しであり、爆心地から1キロ以内で壊滅した同隊の日常を伝える貴重な資料だ。(山下美波)

 はがきの消印は1945年7月26日で、宛名は栄さんの父美賢さん。栄さんの住所は「広島市中國一三九部隊増田隊」と、輜重隊の通称号が記され「検閲済」の印が押されている。

 裏面には小さな文字でびっしりと近況がつづられていた。「小生もますます元気任務に勤(いそ)しんで居(お)ります」「いよいよ決心きめて下士候致するにしましたから何卒(なにとぞ)ご承知の程」と、下士官になる旨を伝えている。文末に「又(また)の便りにて(中略)御健康祈ります」と記し、これが家族に宛てた最後の言葉となった。はがきは戦後、山口市の県原爆被爆者支援センターゆだ苑に寄贈された。

「骨がないんだ」

 栄さんのめい下司(げし)愛子さん(74)=周南市=は、最愛の息子を失った美賢さんの心中を思いやる。下司さんが幼い頃、盆前の墓掃除で美賢さんがいつも「栄の骨がないんだ」とつぶやいていたという。年齢を重ねるごとに子を失った親の無念さを感じ、胸が痛む。

 輜重隊は、軍の部隊や施設が集積した広島城周辺に兵営が広がっていた。馬の飼育や自動車の整備をし、武器弾薬や食糧の運搬を担った。隊員は訓練後に戦地へ赴いた。「広島原爆戦災誌」によると、8月6日は前日の作業で起床時間が遅れ、8時から朝食となったため、多くが兵舎内にいたという。広島城周辺では、他の部隊も含め兵員約1万人が死傷したと推定する。

 ゆだ苑の証言集「語り」で、下司さんの父豊さん=1982年に68歳で死去=も弟の栄さんに言及している。衛生兵だった豊さんは8月7日、救護のため入市した。「(栄さんは)爆心地じゃから、たぶん駄目じゃろうと思うとりました。気にはなるけど動けんし、連絡の取りようがなかった」。後日班長から、朝の点呼を終えて兵舎へ帰る姿を見たのが最後だったと聞いた。

 下司さんは4、5歳ごろ、豊さんに手を引かれて山口市江良の旧山口陸軍病院跡を訪ねたことがある。ここでは73年、軍人の原爆犠牲者の遺骨が発掘されている。「父は、弟が病院に運ばれ、この下に眠っている可能性があると思ったのでは」と下司さんは振り返る。

遺構の訪問切願

 輜重隊施設の被爆遺構を巡っては、約6千平方メートルの発掘調査で約800枚の石畳が見つかり、広島市が37枚を近くの緑地帯に展示する方針を示している。下司さんは、新型コロナウイルス禍が収束すれば、すぐにでも訪れたい考えだ。

 被爆地広島は6日、米国による原爆投下から77年となる。被爆者が願い続けた、核兵器の製造や保有の全面禁止をうたう核兵器禁止条約が21年に発効され、今年6月には第1回締約国会議が開かれた。一方、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は核兵器の使用を一時示唆した。「あの日」から遺骨すら見つからない栄さんたち多くの犠牲者の声なき声が、為政者をいさめている。

(2022年8月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ