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各地で追悼 ヒロシマ8・6

生きていることに申し訳なさ/悲惨な歴史をよりリアルに

戦争は一つもいいことがない/映画館に連れていってくれた父

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 広島戦災供養会の役員たち19人が原爆供養塔前で犠牲者を悼んだ。コロナ禍のため昨年と同様、遺族や一般の参加者約70人はテントの外から見守った。畑口実会長(76)=廿日市市=は、広島鉄道局の助役を務め広島駅で直爆死した父二郎さんに思いを寄せ、「一瞬にして多くの人が命を奪われた。塔に納められている約7万人の遺骨を、これからも供養し続けることが私たちの務め」と力を込めた。

  ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 広島二中(現観音高)の卒業生や遺族約80人が、亡くなった約350人を追悼した。当時1年生だった光成洋さん(90)=安佐南区=は、あの日、福山市へ疎開しており無事だった。「いまだにこの世で生きていることに申し訳なさがある。戦争は絶対にいけん」とかみしめた。友人の名前が刻まれた碑を見つめ、「来年も来るよ」と語り掛けた。

  ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県庁跡近くの慰霊碑前で、県職員や遺族たち約30人が犠牲者1142人を悼み、手を合わせた。名前が刻まれた碑に見入っていたのは、中区の田川和俊さん(69)。伯母サトコさん=当時(21)=は被爆から2、3日後に息を引き取ったという。田川さんの母ミサトさんも、この式典に毎年参列していたが昨年亡くなった。「2世も高齢化しているが、原爆や平和に関心ある若者がたくさんいるのが救い」

  ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式典(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校(現舟入高)の卒業生や生徒、遺族たち約300人が平和大橋西詰めの慰霊碑前に集まった。建物疎開に動員された1、2年生541人を含む生徒と教職員計676人の犠牲者に花と千羽鶴をささげた。舟入高生徒会長の2年川端雛花さん(16)は「先輩たちの過去を知り、悲惨な歴史をよりリアルに感じた。平和をつないでいくのは私たちの責任であり使命」とうなずいた。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の会員30人が、原爆資料館の南側にある像の前に集まり、花束と千羽鶴を手向けて全員で黙とうした。山田豊子会長(71)は「原爆が投下された時、この像のように子を守ろうとする母親のたくましい姿がたくさんあったのだろう」と語り、「被爆者が年々減少する中、原爆について私たちが知っていることを後世に伝えたい」と誓った。

  ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼式(平和記念公園)
 遺族たち約50人が、原爆ドームの南にある慰霊塔の前で犠牲者を悼んだ。府中町の主婦安達正恵さん(61)は、母の金光悦子さん(2020年に死亡)をしのび参列。あの日、悦子さんは建物疎開作業のために集まった南竹屋町(現中区)の運動場で被爆し、顔の右半分や右肩などにやけどを負ったという。「今も世界で核の脅威や戦争がなくならない。ウクライナでの戦いの終結や、一日も早い核廃絶を望みます」と話した。

  ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 平和大通り南側の緑地帯にある碑の前に、加盟する損害保険業界の関係者約50人が集まり、代表者が献花した。原爆が投下された午前8時15分には、全員で黙とう。犠牲となった89人に祈りをささげた。同支部の谷口徹委員長(53)は「先輩の苦難に思いをはせながら献花した。安心安全な社会を目指して損保会社の役割を果たしながら、若い世代にも(平和の尊さを)発信していきたい」と語った。

  ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 建物疎開中に亡くなった市立造船工業学校の生徒の遺族や、流れをくむ市立広島商業高の生徒たち約60人が犠牲者を悼んだ。当時、工業学校1年だった森本啓稔さん(90)=中区=は同級生の大半を原爆で失った。生き残った数人も亡くなったり体調を崩したりして、ことしは同期でただ一人の参列となった。「慰霊碑の名前に触れると、今も思い出が浮かぶ」。記憶の中の友人に再訪を約束した。

  ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 病院の幹部職員たち51人が慰霊碑の前で黙とうをささげた。「先輩方は病院に殺到する人々に懸命な治療を続けた」と古川善也院長(67)。原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」の被害者救済を巡っては国の新たな被爆者認定指針の運用が始まった。黒い雨を浴びた人に被爆者健康手帳の交付が進んでいることなども報告し、「当院はこれからも被爆者の健康保持に努めていく」と誓った。

  ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 遺族や卒業生、流れをくむ皆実高の生徒たち約100人が慰霊碑に花を手向けた。生徒会長の2年田村心海さん(16)は「核兵器を取り巻く状況は危うい。戦争のない世界を築くためできることを考える」と誓った。当時1年生の妹睦子さんを亡くした東区の植田䂓子(のりこ)さん(91)は「戦争は一つもいいことがない。人生を奪われた妹のため足を引きずってでもここに来なければ」と語った。

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員たち約40人が慰霊碑前で黙とう。中区の三浦恵子さん(69)は、電話交換手だった叔母の田平スエ子さんに思いをはせた。被爆死し、遺骨は見つからなかった。「母が生前『かわいい子だったんよ』と叔母の話をしてくれた。会ったこともないのに身近に感じてきた」と打ち明ける。ロシアが核兵器の使用をちらつかせる状況に「絶対駄目だと、叔母も母も言うはずです」。

  ◆旧中島本町平和観音慰霊祭(平和記念公園)
 公園内にあった中島本町の元住民たち約50人が「平和乃観音」像前で犠牲者に思いをはせた。原爆で両親と姉、兄を失った浜井徳三さん(88)=廿日市市=は、いたずらや買い物の記憶を振り返り「この町が大好き。だけど来ると苦しくなる。家族や仲間が眠る上を歩いているような気がするから」。町があったことを知る人が減る中「生きている限り歴史を伝え、守っていきたい」と力を込めた。

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前で、遺族たち35人が黙とう後に献花した。安佐南区の会社員福本健さん(62)は祖父の弟の治太郎さん=当時(43)=を被爆から数日後に亡くした。15歳で被爆した亡き父の英さんは、叔父に当たる治太郎さんの火葬を1人で担ったという。父の「惨めだった」との言葉が記憶に残る。「車いすを使うようになっても参列するおやじの背中を見てきた。私も子どもたち次の世代に伝えていきたい」

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 遺族や職員たち約70人が慰霊碑のある多聞院に集まった。午前8時15分、鐘の音に合わせて黙とう。犠牲者288人に手を合わせた。南区の三上嘉彦さん(86)は父の白禰(はくじ)さんを亡くし、自身も疎開先から戻り入市被爆した。「映画館に連れていってくれた優しい父だった」。ロシアのウクライナ侵攻で再び核兵器使用が危惧される現状に「父の死が無駄にならないよう願う」と話した。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 新聞・通信7社の犠牲者133人の名を刻む碑を前に、遺族や労組関係者たち約60人が集まった。オンライン中継もした。東区の会社員桑原秀夫さん(64)は、被爆死した中国新聞社員の伯母玉枝さん=当時(20)=をしのんだ。2012年に父が亡くなって以来、毎年参列している。「ロシアのウクライナ侵攻など世界情勢は緊迫しているが、報道機関は核兵器反対の姿勢を貫いてほしい」と求めた。

  ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 流れをくむ基町高内の慰霊碑前で、当時の生徒や遺族、在校生たち約200人が黙とう、献花した。西区の植木研介さん(77)の叔父、永野純夫さんは当時1年で、小網町(現中区)での建物疎開の作業中に被爆死。乳児だった自身も左目の視力を失った。ロシアによるウクライナ侵攻や台湾情勢を憂い「異常な方向へかじを切る指導者が現れている。立ち止まって考えてほしい」と願った。

  ◆広島大付属中・高校原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 生徒と教員の計約40人が、前身の広島高等師範学校付属中の犠牲者の慰霊碑に花や折り鶴をささげた。鈴木由美子校長は「平和を愛し、平和な社会のつくり手となることを誓いたい」とあいさつ。ウクライナ支援の校内募金をしたという高校2年福田彩佳さん(16)=南区=は「ニュースで戦争を見て、平和は当たり前ではないと感じた。今後も平和のために学び、行動したい」と話していた。

  ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内の慰霊碑前で遺族たち約60人が献花、黙とうした。当時山中高女専攻科1年だった安佐南区の大谷佐智子さん(93)は、平塚町(現中区)の自宅で被爆。近くに住んでいた同級生の児玉喜代子さんが家の下敷きとなり、大けがを負って逃げてきたという。「数日後に亡くなったと聞く。求めていた水をあげることもできず、毎年あの悔しさを思い出してしまう」と声を震わせた。

(2022年8月7日朝刊掲載)

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