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[ヒロシマの空白 被爆77年] 命の重さ胸に 最高齢遺族代表 神奈川の鈴木さん

入市被爆の姉 恋しく 体験の継承 娘の手に

31歳で他界 70年越し死没者名簿登載「ようやく慰霊できた」

 原爆の日の6日、広島市各地で追悼の集いがあり、遺族や市民たちは1発の爆弾に奪われた命をしのんだ。77年前の惨状を知る人は少なくなる一方で、核兵器を巡る国際的な緊張は高まる。今こそヒロシマの記憶の継承を―。一人一人がその思いを新たにした。

 神奈川県遺族代表で被爆者の鈴木郁江さん(95)=座間市=は初めて平和記念式典に臨み、原爆投下後に自分を捜して入市被爆した姉の田治桃枝さん(1953年に31歳で死亡)に思いをはせた。被爆者健康手帳を取得できないまま、若くしてこの世を去った姉。今年に入って、手帳がなくても原爆死没者名簿に載せてもらえると知り、6月に広島市に届け出た。「姉の分まで長生きさせてもらえてるのかな」。70年越しの名簿登載で、あらためて優しかった姉への恋しさが募る。

 式典の冒頭、郁江さんは姉の名前が書き加えられた死没者名簿が原爆慰霊碑に納められる様子を、静かに見つめた。姉は自分の代わりに亡くなったんだと思い続けてきた。「ようやく慰霊できてほっとしました。昨日の雨は安心した姉の涙だったのでしょうか」。郁江さんの横で、一緒に参列した娘の山本緑さん(68)がうなずく。

 桃枝さんは、広島県世羅町で8人きょうだいの三女として生まれた。早世した母の代わりに家族を支えるしっかり者。45年8月10日、千田町(現中区)にあった広島赤十字病院の看護学生だった郁江さんを捜して入市被爆した。

 郁江さんは、爆心地から約1・5キロの学生寮の一角で閃光(せんこう)を浴びた。血だらけになりながら倒壊した建物からはい出し、一命を取り留めた。どうにか戻った世羅の実家で桃枝さんが献身的に世話してくれたが、その8年後、桃枝さんは肝臓と腎臓のがんを併発し亡くなった。入市被爆との因果関係は分からない。旧原爆医療法に基づいて被爆者健康手帳の交付が始まったのは、死亡から4年後の57年だった。

 今年、最高齢の遺族代表となった郁江さんは「残された者の務め」として、被爆体験や晩年の桃枝さんの様子を、同居する緑さんに少しずつ話してきた。出産後に見舞ってくれたこと、一緒に自転車に乗った思い出…。

 その思いを受け継ぎ、近所の小学生に郁江さんの被爆体験を聞かせる活動を始めた緑さん。「もう一人の被爆者だった伯母の歩みをもっと知りたい。生きた証しを記憶に刻み、伝えていくのが私の役割です」。新たな使命を感じている。(栾暁雨)

(2022年8月7日朝刊掲載)

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