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[被爆77年 家族の記憶] 語る 生き抜いた日々を 呉の新谷さん親子

耐えた苦労「伝えるけんね」

水求められ 水筒抱えて逃げた母

 働き盛りの父、愛くるしかった妹…。1発の原爆は広島のまちを壊滅させ、かけがえのない家族の日常を奪った。残された人は戦後を必死に生き抜き、きのこ雲の下の壮絶な体験を子や孫たちに語り継いできた。こんな悲劇を二度と繰り返してはいけない―。6日、それぞれあの日の記憶を刻む地を訪れ、亡き人を悼んだ。

 新谷栄子さん(92)=呉市音戸町=は6日朝、次男の耕二さん(64)や妹と、コベルコ建機広島本社(広島市佐伯区)にある慰霊碑に父森井周市さんの遺影を添えて千羽鶴をささげた。77年前の夏の風景を思い出しつつ半年かけて折った。

 1945年8月5日。当時15歳で三原市の師範学校の寄宿舎に入っていた新谷さんは、帰省した音戸町の実家で父周市さんと母の桃枝さん、5人のきょうだいと食卓を囲んだ。久しぶりの一家だんらんだった。

 周市さんは翌6日、天神町(現中区)で油谷重工(現コベルコ建機)の同僚たちと建物疎開の作業を予定していた。「明日の作業はたいぎい(面倒だ)のお」とこぼすと桃枝さんが「非国民言われるで」と笑ってたしなめた。夕方、寄宿舎に帰る新谷さんと周市さんは呉駅まで歩いた。

 「車窓から父に手を振った。まさかあれが最後の別れになるとは…」。新谷さんは声を詰まらせた。周市さんは爆心地近くで被爆死した。38歳だった。遺体は見つかっていない。

 2日後の8日から桃枝さんは子ども5人を連れて広島市内に入って周市さんを捜した。当時1歳10カ月の末っ子の娘を負ぶって息子、娘4人を連れて多くの遺体が横たわった焼け野原を歩き回った。「水を下さい」。虫の息の人からそう呼び止められても「私らも生きていかなならんのじゃけん」と水筒を抱えて逃げたという。

 2012年に101歳で亡くなった桃枝さんは何度も当時の話を繰り返していた。新谷さんは寄宿舎にいて入市被爆を免れたが、戦後は一家の家計を小学校の教員として支えた。弟は「ピカドン」と呼ばれていじめられ、妹は結婚するまで被爆者であることを隠していた。

 耕二さんは定年退職した4年前、北九州市から実家に戻った。家族の被爆体験を次代に伝えようと、広島市が今年始めた家族伝承者制度に応募した。県内各地に住む親戚を訪ね油谷重工に関係する数十人分の手記も読み込んだ。

 2年後の伝承者デビューを目指す耕二さん。「祖父がどこでどう亡くなったか、母や叔父、叔母がどれだけ苦労したか。ちゃんと子どもたちに伝えるけんね」。家族で訪れた碑の前で誓った。(川上裕)

(2022年8月7日朝刊掲載)

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