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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 田中熙巳さん―伯母を焼き泣き崩れる

田中熙巳(たなかてるみ)さん(90)=埼玉県新座市

非人間的な兵器。決して許してはならない

 米軍による原爆投下で広島が壊滅(かいめつ)した3日後、長崎にも原爆が落とされました。あの日からきょうで77年。東北大(仙台市)の元助教授で、被爆者団体の全国組織である日本被団協(にほんひだんきょう)の代表委員として「被爆者の苦しみを誰(だれ)にも味わわせたくない」と活動している田中熙巳(てるみ)さん(90)=埼玉県新座市=に体験を聞きました。

 田中さんは、陸軍将校だった父恒男(つねお)さんが赴任した旧満州(中国東北部)の奉天(ほうてん)(現瀋陽(しんよう))近くで生まれました。前年の1931年、日本の関東軍が「満州事変」を起こし、中国東北部を占領(せんりょう)していました。

 恒男さんが急死したため、母モトさんと兄、2人の妹と5人で38年に長崎市へ引き揚げました。父方の伯母(おば)・佐々木コトさん、母方の伯母・吉田ルイさんの2人を頼(たよ)ったのでした。

 45年、旧制長崎中に進みました。広島と違(ちが)って1年生が大規模な建物疎開(そかい)作業に動員されることはなく、敵に向けるための竹やりを作ったりしたそうです。8月9日は授業日でしたが朝から空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴ったため、解除を待ち自宅の2階で本を読んでいました。

 午前11時2分。目の前でカメラのフラッシュをたかれたような光に襲(おそ)われました。気を失い、ごう音の記憶はありません。意識が戻ると、2枚のガラス戸が背中の上に倒れていました。奇跡(きせき)的に割れず、けがをせずに済みました。爆心地から3・2キロでした。

 空に黒煙(こくえん)が上がり、そのうち真っ赤になりました。やけどで体が膨(ふく)れ上がった人たちが逃げてきます。近くの国民学校はけが人であふれ、すさまじい光景です。心配なのは伯母たちでした。3日後、2人が住む浦上地区を目指しました。爆心地付近であることを、当時は知るよしもありません。死体が散乱する焦土(しょうど)を歩き回りました。

 時遅く、吉田さんはすでに息絶えていました。トタンの上で遺体を火葬後、人の形をとどめた遺骨を見た時「やさしかった姿が思い浮かび、その場で泣き崩れました」。佐々木さんは自宅跡で黒焦げになっていました。着物の一部だけ焼け残っています。「伯母さんの着物の柄(がら)。やはりだめだった…」とモトさんがつぶやきました。

 13歳で、祖父と伯父、いとこの子を合わせ親族5人を失いました。さらなる爆撃(ばくげき)を恐れ、防空壕(ごう)の近くの森の中で終戦まで過ごしました。

 戦後占領(せんりょう)期の7年間ほどは、母子家庭の苦しい生活でした。「食糧が全くない日が続くこともありました」。長崎港で、中学生にもできる荷役(にやく)の日雇い仕事をして家計を支えました。東京で5年間働いた後、東京理科大へ。苦学して60年に卒業後、東北大に移り固体工学を研究しました。

 原爆の問題を強く意識したのは54年。米国が行った水爆実験で日本のマグロ漁船が被災(ひさい)した「第五福竜丸事件」でした。原水爆禁止の署名運動に加わりました。一方で「自分は被爆者ではない」とのためらいがありました。一瞬(いっしゅん)で焼かれた犠牲者や、近距離被爆で健康や人生を破壊された人に比べて自分は…との思いからです。仙台で被爆者団体の活動に参加したのは70年ごろ。断り切れず証言をした77年に、語る決心が付きました。

 その後、3年前に86歳で亡くなった妻晴子さんに支えられ、日本被団協の事務局長として力を尽(つ)くしてきました。2017年から代表委員に。核兵器廃絶の訴えと、戦争を始めた国の責任で被爆者の援護(えんご)をしっかり行うよう求めることが活動の両輪です。今、「被爆者が一丸となって実現に努力した核兵器禁止条約に日本政府は批准しない。怒りを通り越している」と声を強めます。

 「核兵器は残酷(ざんこく)で非人間的な兵器。使えば現実に何が起こるのかを、どうすれば皆に分かってもらえるのか」。悩みながらも「市民を無差別に殺す兵器を決して許してはならない。力の限り訴え続ける」と誓(ちか)います。(金崎由美)

私たち10代の感想

無差別に人を苦しめる

 原爆は、被爆した時だけでなく、その後も病気や差別の苦しみがつきまとう兵器です。田中さんの「原爆は無差別に人を苦しめる」という強い言葉が印象に残りました。広島と長崎で起こったことの残酷(ざんこく)さが十分に世界に伝わらず、武力の争いや脅(おど)しが絶えない中、被爆地の私たちにできる発信は何なのかを考えたいと思いました。(高1俵千尋)

「願う」だけでなく「行動」

 田中さんの努力が基となって、今、ニューヨークの国連本部で日本被団協の原爆展が開催(かいさい)されているそうです。その行動力がすごいと思いました。私たちは「願う」だけでなく「行動」することが大事です。「どうすれば、核が使われてはならない、と皆が思ってくれるのか」と悩み、考えている田中さんの言葉を重く受け止めました。(中2山代夏葵)

 振り返ると、今まで私は広島を中心とした平和学習を学んできました。今回の取材では当時の長崎などについて伺うことができた貴重な機会となりました。

 長崎で被爆された後、防空壕の近くの森で戦争が終わるまで寝泊まりしていたことや戦後7年間無収入で数日間口に入れられるものがなかったことなど、今の日本では想像できない生活を送っていたことが衝撃的でした。また、田中さんが中心となって国連のロビーに展示をし、そこで証言をできるようにしたことも印象に残りました。

 昨年の冬に核兵器禁止条約が発効しましたが、被爆国である日本はまだ批准していません。私は公民の授業でこのことを知り驚きましたが、その時は深く考えていませんでした。世界に目を向けると、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を行っています。そして、核兵器は一瞬にして、一般の人や大切な人の命を奪います。一人一人が核兵器を使用した後のことを考えるべきだと思います。

 どうしたら核兵器を使ってはいけないと心の底から思ってもらえるのか。この答えを見つけるのは簡単なことではありませんが、この答えを導き、多くの人に発信していくことが私たちの使命だと思いました。(高3中尾柚葉)

 国内外で、精力的に核廃絶を訴えてきた田中さん。「何十年も原爆の残酷な被害について話してきたのに、伝わっていないように感じる」と、声を震わせている姿が印象的でした。多くの人に核兵器の非人道性を伝え、核兵器廃絶につなげるにはどうするべきか、改めて考えようと思いました。(高3岡島由奈)

 「核兵器を使うと被害が一生続く。それなのに平気な顔して『核を持つべき』と言っている人がいる。持った時のことを考えていっているのだろうか」と田中さんは話します。みんなが核を使うべきでないと思えるようにするために、核兵器が無差別に殺してしまう恐ろしい兵器であることを私たちも伝えていきたいです。伝えることで、核兵器の使用は自分たちを核の加害者にも被害者にもすることに気づいてくれる人が増えてほしいです。(高2中島優野)

 最も心に残ったのは、将来の夢として憧れていた職業が軍人だったということです。田中さんのお父さんが軍人だったという話からも、戦争というものがとても身近にあったのだと分かりました。田中さんの戦後の活動から、日本だけでなく世界の平和のためには、国を越えて世界を舞台にした平和活動をしていくことが大切だと感じました。核兵器の恐ろしさを多くの人に伝えていくためには、SNSを活用するなどの工夫した平和活動が必要になってくると思います。ヒロシマだけでなく、ナガサキの原爆も多くの人に知ってもらいたい、と改めて思いました。(中3中野愛実)

 長崎の被爆者である田中さんは、奇跡的に原爆による外傷が全くなかったため、被爆者としての証言活動はあまりせず、ほかの被爆者の方が証言をする場をより多く作ることを大切にしたそうです。たくさんの試行錯誤を重ね、国連で被爆者の活動が認められた時は、とてもうれしかった、と話していました。私は、被爆者の方の平和活動と言えば、主に証言活動をして伝えること、というイメージがあったのですが、こういう形でも平和に貢献できるのだと新たな可能性を学びました。

 また田中さんは、非人間的な核兵器を使う可能性について語っている人たちに、使った後のことを少しでも想像してもらい、実際の被害を知ってもらうことが大切だと語っていました。今回の取材は、私ができる平和活動の形、内容を新たに考える機会となりました(中2川本芽花)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801

(2022年8月9日朝刊掲載)

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