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暁部隊所属の大叔父 戦時下の消息追う 相模原の医師「生死の境 何を思ったか」

 大叔父は原爆投下後の広島をその目で見たのか―。相模原市の医師志水祥介さん(50)が、旧陸軍船舶部隊(通称暁部隊)で揚陸舟艇の訓練をする部隊に属し、終戦後間もなく海難死した大叔父志水南洲さんの戦時下の消息を追っている。身内には戦争の話をしないまま早世したため、存命の戦友や部下の証言を捜し求めている。「生死の境に何を考えていた人だったか、ぜひとも知りたい」と話している。(客員特別編集委員・佐田尾信作)

 南洲さんは1921年北海道焼尻島生まれで、陸軍士官学校(陸士)57期。44年に教育船舶兵団司令部の機動輸送補充隊(暁一六七一一部隊)付として現在の周南市櫛ケ浜に配属された。終戦時は陸軍中尉。復員して帰郷したが、47年上京するための船が遭難して亡くなる。27歳だった。

 志水さんは南洲さんが医師になるよう望まれた人だったと知って職業柄関心を抱く。軍歴を調べていたところ、2011年の本紙連載「マルレを焼いた日」に陸軍船舶特別幹部候補生(船舶特幹)だった呉市の故長(ちょう)成連さんが機動輸送補充隊について取材に答えていることを知った。マルレは陸軍水上特攻艇の秘匿名。機動輸送補充隊は揚陸舟艇の訓練が任務だが、長さんらは櫛ケ浜から幸ノ浦(現在は江田島市)に呼集され、出動すれば命の保証はないマルレの訓練を受けることになる。

 船舶特幹2期生、3期生のOBは「紅の血は燃えて(正続)」「若潮三期の絆」と題した詳細な記録集を編んだ。彼らの上官に当たるはずの南洲さんの名前は見当たらない。しかし陸士57期はフィリピンや沖縄で戦死者を出すなど、水上特攻の指揮官に任じられており、志水さんは「特攻で前線に出ていくかどうか、紙一重の立場ではなかったか」と想像する。軍歴には「船練(船舶練習部)分遣」の記述もあり、何を意味するのか内情を知る人を捜している。

 一方、櫛ケ浜の機動輸送補充隊は45年に相次いだ徳山空襲に遭遇したと思われる。海軍燃料廠(しょう)が壊滅した5月の空襲の際は高射砲で応戦した、救援や遺体収容のため出動した―という特幹2期生の手記が「紅の血は燃えて」に収録されている。南洲さんも救援に出動したのかもしれない。

 さらに南洲さんは原爆投下後の広島に救援に入り、あの惨状を見た可能性もある。「広島原爆戦災誌」では当時の船舶部隊が総力を挙げて救援・復旧に当たったことが分かるが、隣県からの出動については詳述されていない。ただし同じ特幹2期生の手記には、8月7日に櫛ケ浜の部隊もトラック数台で広島に向かった―とある。南洲さんを知る戦友や部下の証言が待たれる。

 櫛ケ浜時代の長さんの手記に一人の若い見習士官が出てくる。彼はこうりに詰めた岩波文庫などを見せて「選んで持ってきたが無駄だった」とつぶやく。志水さんは「手記に名前はないけれど大叔父と重なる。身内でも紳士的な人だったと伝わっていて、今も私を律してくれる存在です」と言う。志水さんの電子メールはsshosuke1112@icloud.com

水上特攻と船舶特幹
 太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、陸軍は1944年「四式連絡艇(マルレ)」の開発と運用に着手した。爆雷を搭載したボートが敵艦に肉薄する戦法で、搭乗員として20歳までの陸軍船舶特別幹部候補生(船舶特幹)を募集。「海上挺進(ていしん)隊」の名でフィリピンや沖縄などの激戦地に動員されたほか「本土決戦」に備えて九州などに配備された。マルレの訓練は香川県豊島(現在は土庄町)や幸ノ浦(現在は江田島市)などで行われ、幸ノ浦には慰霊碑がある。

(2022年8月15日朝刊掲載)

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