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父の戦争 まだ終わらず 遺品に戦友の写真「親族へ」 広島の以南さん 裏書き頼りに訪ね歩く

 亡き父が大事にしまっていた日中戦争時の戦友たちの写真を、それぞれの家族に届けたい―。広島市南区の以南(いなみ)靖宏さん(77)は、写真の裏面に書かれた情報を手掛かりに親族を捜し歩いている。約1年間で7人に行き着いた。だが、まだ特定できていないカットもある。「新たな情報を得たい」と先月、それらの写真を掲載した「父の戦争」を自費出版した。(金崎由美、胡子洋)

 以南さんは父の穐三(あきそう)さんが2011年に94歳で死去した後、遺品の中から撮影者不明の約90枚を見つけた。行軍の様子や上海など中国各地の風景を捉えた写真のほか、若者10人の集合写真、個人のポートレートも。一部は裏面に名前や「沼隈郡」「高田郡(現安芸高田市)横田村」などの地名が記されている。多くが穐三さんの筆跡だ。

中国で最前線に

 穐三さんは1935年、召集され広島を拠点とする陸軍第五師団の工兵隊に入営した。日中戦争の発端となった37年の盧溝橋事件後、宇品港(現広島港)から中国大陸へ渡った。「軍都」広島は陸軍部隊を送り出す一大拠点だった。

 「武漢攻略戦」の最前線で戦ったことを記す第十一軍司令官名の「感状」が以南家に残るものの、本人が苛烈な戦場体験を語ることはなかった。珍しく口を開いたのは69年。初の有人月面着陸を伝えるニュースに「戦死した仲間は想像もしていなかったろう」と以南さんに漏らしたという。「一緒に月を見ていたら、突然敵に撃たれて死んだ」

 父の死後、あの言葉の意味を考えるようになった。「父にとっての戦争は、まだ終わっていないのではないか」。昨年、胸に抱え続けていた「宿題」に取りかかった。写真に裏書きされた住所に足を運び、親族の所在を聞き歩いた。

見つかった遺族

 最初は怪しまれながらも、目的を説明すると多くの人が協力してくれた。法事が行われていた集会所で情報提供を求めたことも。遺族を捜し当てて知った父の戦友のその後は、戦死した人、戦後を懸命に生きた人、それぞれだった。

 安芸高田市美土里町の上野譲さん(74)は、父の長(ひさし)さん(2014年に101歳で死去)の写真を以南さんから受け取った。戦争体験を聞いたことはなく、軍服姿を見たのも初めて。「父の若き姿を見ることができるとは」と目を潤ませた。譲さんの姉の徳物(とくぶつ)ハルエさん(85)=同市高宮町=も、写真をさすり「ありがとうございます」と口にした。

 穐三さんは中国から復員して41年に兵役を終えたが翌年、再び応召した。45年8月6日、陸軍船舶司令部(通称暁部隊)の兵舎で被爆。宇品町(現南区)から壊滅した市内へ向かった。乳飲み子だった以南さんも翌7日、帰らない穐三さんを案じる母とともに仁保町堀越(現南区)の自宅から広島駅付近に入った。

 大陸の戦場と広島の焼け野原を歩いた穐三さんは、後に「戦争は勝った側も負けた側も疲弊する」と語っていたという。「二度と戦争には関わらない、と強い口調で断言したこともありました。忘れられません」

 今年2月にロシアがウクライナに侵攻し、戦火がやむ気配はない。「戦争が何を奪うのか、本を通して考えてほしい」と以南さん。知人や祖母から聞いた被爆体験も書き留めた。百年書房刊。B6判80ページ。1800円。以南さん☎090(4691)0664。

(2022年8月15日朝刊掲載)

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