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社説・コラム

『潮流』 亡き人と暮らす

■論説委員 田原直樹

 お盆を迎え、仏壇で墓で手を合わせる。先祖や亡くなった家族をしのびつつ、この営みがいつまで、どう続くかと思案する。

 先日訪ねた国立歴史民俗博物館(千葉県)の「亡き人と暮らす」展で目にした「仏壇じまい」という言葉が頭から離れない。

 墓じまいは聞くけれど、仏壇も…。だが考えてみれば当然である。面倒をみるのが難しくなれば、しまうことになる。

 企画展は、仏壇や位牌(いはい)、仏具など、家庭での供養の流れをたどる内容だった。江戸時代に普及した仏壇は先祖を祀(まつ)り、家庭での祈りの場となってきた。時代や地域で大きさ、デザインに特徴があり興味深い。

 それが戦後、新しい生活スタイルや核家族化の進行で急速に変化してきた。小型化やリメークもされるが「仏壇ばなれ」は止まらず、しまう家が出てきた。

 それでも亡き人と暮らしたい、という人間の思いは消えない。現れてきた潮流は「手元供養」らしい。

 遺灰の一部を専用容器やペンダントに保管し、手元や身近に置いて、しのぶ。遺灰を封入する高価なジュエリーもあるそうだ。

 故人を強く思わせるのは写真だ。フォトスタンド型の手元供養品は遺影と遺灰を収蔵できるという。

 立体像なら、さらに強くおもかげが浮かぶはずだ。人形や3Dデータから作るフィギュアまで登場する。

 とはいえ、フィギュアも何代か引き継がれるとどうなるか。誰だか知らぬ人形が何体も…となりそう。手元供養品もいずれ、しまうことになるのではないか。何だか、人間のおかしさや悲しさが思われる。

 引き継いでくれるかどうか案じつつ深く考えず墓も建てた。仏壇と併せ、子どもの悩みの種となるか。

 「亡き人と暮らす」というはかない思いに、区切りをつけられぬ親だったと、しのんでもらうしかない。

(2022年8月13日朝刊掲載)

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