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社説・コラム

追想・三宅一生さん ヒロシマと距離 複雑な思い

 原点を問われると、完成間もない平和大橋を挙げていた。「本通りの絵画教室やコッペパンを持って平和公園に行くときに、『これがデザインなのか』と強く意識した」。国泰寺高(広島市中区)に通っていた頃である。

 平和大橋の欄干を設計したのはイサム・ノグチ。デザインへの扉を開いてくれたノグチとは、その後親交を深めた。2人をテーマにした展覧会が1997年に香川県丸亀市であり、会場で一生さんに話を聞いた。

 ノグチは日本人の父と米国人の母を持ち、アイデンティティーを探し求める中で「地球人」に行き着く。「僕も大学を出てパリに行き、西洋、東洋、日本人であることの本質を考えたとき、イサムさんの生き方が助けになった。だからイサムさんは心の中の先生」と一生さんは話した。

 一生さんの高校時代、広島は復興途上で、今よりずっと田舎だった。メディアも限られ、情報も乏しかっただろう。未来を開くために、懸命にもがいていたようだ。

 同級生にこんなエピソードを聞いた。女性雑誌「それいゆ」の表紙絵で大人気だった中原淳一が来るというので、一生さんに頼まれて広島市公会堂について行った。「女ばっかりの中で前の方に陣取って…。僕と違って三宅は恥ずかしがる様子はなかった」。作家で着物デザイナーとしても成功していた宇野千代とは手紙をやりとりしていたという。自他ともにシャイと認める一生さんの行動力に驚かされる。

 取材当時は被爆体験を積極的に語っていなかった。海外のジャーナリストが自分の仕事を原爆と関連づけたがるといい、それを不満に感じていた。「ヒロシマを代弁しているわけではない。ヒロシマの枠に収まらない努力をしてきた」と自負を語った。

 一方で、平和を求める広島の動きをよく知っていた。「あの町は蘇生して、単なる悲劇の町ではなく希望に満ちた町になったと思う」とも言った。故郷を「あの町」と呼んだ。「あの町」という表現に、故郷への距離感と複雑な思いを突き付けられたようで、たじろいだ。

 それだけに2009年に米オバマ大統領(当時)に広島訪問を促す手紙を書き、15年に読売新聞で被爆体験を詳しく語ったことは意外だった。聞き手の私が未熟だったのか、一生さんが年齢を重ねたのか。世界では紛争が絶えず、福島では原発事故が起き、やむにやまれぬ気になったのだろうか。

 ヒット作「プリーツ・プリーズ」は妊婦が着ても痩せっぽちが着ても、その人なりのやさしいシルエットが出来上がる。小さくたためて、しわにならない。洗濯機で洗えて、すぐ乾く。「ジーパンやTシャツのような普遍的な服を作りたい」という一生さんの真骨頂である。

 機能一辺倒ではない。思い描く糸、織り、染めを追求した。「僕の服に外国の生地を使うと、オリジナリティーは半減する」とも言っていた。日本伝統の素材、職人技、最新のテクノロジーが組み合わさって、個性と機能が両立した。

 一生さんの服は長持ちする。私の手元には30年選手もいる。丸洗いできるスーツやコートもある。実は「イッセイミヤケ」の直営店は昨年初め、広島から撤退した。地方店舗の整理の一環だった。そして私たちはいま、一生さんを失った。(増田泉子)

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 三宅一生さんは5日死去、84歳。

(2022年8月13日朝刊掲載)

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