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社説・コラム

世界へと舞ったチョウ 森英恵さんを悼む

デザインの原点 古里の島根

 背筋の伸びた振る舞い、少女のような笑顔を交え、穏やかで気品のある語り口が印象的だった。「後ろを振り返らず走り続けたけれど、私の原点は古里の六日市に。人生のベースですね」。10年ほど前、東京・六本木の高層ビルのスタジオ。自らの人生を振り返る取材を引き受けていただいた。

 寝る間もなく映画スターの衣装を手掛け「女ナポレオン」と呼ばれた豪傑ぶり、本場パリで「東洋人初のクチュリエ(高級服デザイナー)」の称号を得た足跡の華やかさ。自らの感性と好奇心、手仕事の力を信じて戦後のモードの世界で道を切り開いてきた。

 森デザインの象徴とされたチョウは、古里の島根県六日市町(現吉賀町)の野山に舞うモンシロチョウ。高津川のきらめき、雪の白、ナンテンの赤、スミレの紫、稲穂の金色-。色彩感覚は自然の彩りが育てた。町唯一の診療所を切り盛りしていた医師の父はハイカラで、常に仕立服に縁なしメガネ。「装う」行為がいつも身近にあった。

 デザイナーとしてテーマに掲げた「イースト・ミーツ・ウエスト(東洋と西洋の出合い)」。二つの文化や美意識の違いを強調する単純な対比ではない。「いつも『あなたはどこから来たの』と言われ、個性が問われた。原点を探し、仲間と磨き合って自分でつくるしかない」。異文化に対する驚きや悔しさをばねに感性を高めた経験がにじむ。

 最初のカルチャーショックは小学4年で転居した東京。都会のまぶしさだ。戦中は焼夷(しょうい)弾の爆発音が響く防空壕(ごう)で「風と共に去りぬ」を読み、終戦後、電気スタンドを覆う黒い布を払った瞬間、圧倒的な自由を感じた。西洋文化という原色の時代の予感もあった。

挑む選択肢選ぶ

 終戦間もなく結婚。洋裁を学んで手仕事が自分の道と直感し、新宿に開いた店「ひよしや」で走り始める。当時の新宿は、故三宅一生さんや故高田賢三さんたちも集った先取の街。映画衣装の依頼が舞い込み、1950年代から銀幕スターたちと黄金期を駆け抜けた。

 絵に描いたような成功ストーリーに見えて、失意や迷いを抱えた分岐点は幾度もあった。「挑む選択肢」を選んだのが森さんらしさだろう。身を削る仕事に疲れ果て、引退する前にと1961年、訪れたパリ。オートクチュール(高級注文服)のコレクションを巡った後、気鋭の女性デザイナーだったココ・シャネルのサロンで「ココがあなたの黒髪が美しいと言っている」と聞いた。後日届いたスーツは女を知り尽くした仕立ての服。日本でもがくよりも、世界を舞台にしようと決めた。

 最初に挑んだのは米ニューヨーク(NY)。観劇したオペラ「マダム・バタフライ」で、畳の上をげたで歩く日本人役の哀れな描かれ方に反骨心を覚えた。多様な布地や染めなど日本文化を学び直し、65年に開いたショーのテーマは「MIYABIYAKA(みやびやか)」。業界人の喝采を浴び、世界へ扉を開いた。

 NY5番街のショーウインドーに作品を飾る成功の中、舞台をパリへ移す。しかも、当時全盛だったプレタポルテ(高級既製服)でなくオートクチュールで。77年に創作拠点のメゾンを開き、オートクチュール組合の正会員に認められた。東洋の美意識は無駄をそぎ落とすミニマリズム、西洋はプラスの感覚で飾る華やかさ。ファッションという共通言語に日本人の美意識を持ち込み、文化の厚みを増す役割を感じながら、さらに走り続けた。

後進支援に尽力

 2004年にパリのオートクチュール界を引退。財団を設立して日本の若手創作者の支援に心を砕いた。モデルで孫の森星(ひかり)さんも伝統工芸などの魅力を世界に発信する「tefutefu(てふてふ)」を仲間と創業するなど思いは継がれている。

 「私は服を作ることに一生を懸けた人間。人生を十分に走った」と振り返りつつ、日本の行く末には思いを致し続けた。「伝統を受け継ぎ、世界で存在感をどう示すか。日本のことをあらためて考えるの。アートでも何でも個性が問われる。私は、手で創る仕事を若い人たちに残していきたい」。古里の原風景を心に抱いて世界と向き合い、時代の一歩先を走り続けた人生だった。(山本洋子)

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 森英恵さんは11日死去、96歳。

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安田女子や就実・広島なぎさ中高…次世代へ思い

手掛けた制服 高い人気

 1980~90年代、全国的に学校制服の多様化が進み、有名デザイナーが相次いで制服業界に参入した。その中でも、気品と機能性に富んだ「英恵」ブランドは高い人気を誇った。中国地方の学校で愛用され続ける森さんのデザインには、次世代に対する思いが込められていた。

 広島市中区の安田女子中・高は創立80年の95年、森さんデザインの制服に一新。同年、講演に訪れた森さんは「自立した女性とは自分の考えをはっきり言える人」と語りかけた。柳沢温郷(はるくに)・中学教頭は「制服のおかげで学校に愛着を持つ生徒も多い」と功績をしのぶ。

 女子校だった92年から英恵ブランドを着用している岡山市北区の就実中・高。高校生用ジャケットの胸元には大きな星が二つ付く。秋山圭子校長は「社会で輝く人に、との思いが込められている」。2009年の共学化以降、男子用も森さんのデザインだ。

 広島市佐伯区の広島なぎさ中・高は08年から森さんの制服に親しんできた。シャツの前立てにあしらった爽やかなストライプは、ネクタイに替わるデザインとして森さんが提案。「フォーマルでありながら、着こなしで個性を出すことができる。生徒の自主性を重んじたデザイン」と田中裕美・副校長は話す。(西村文、山田祐)

(2022年8月19日朝刊掲載)

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