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連載・特集

利他を考える <上> 自分よりも他人の利益を優先 コロナ禍で注目 どう実践

批評家・随筆家の若松英輔さん(54)に聞く

他者の思いやりに気付いて

 自分よりも他人の利益を優先する「利他」。コロナ禍で他者への配慮が求められる社会となり、多くの人から注目されている。お互いを思い合うことは、自分自身の支えにもなる。日常の営みの中に上手に取り入れるためのポイントを、研究者と僧侶にそれぞれ聞いた。2回に分けて紹介する。(山田祐)

  ≪―コロナ禍で「利他」への関心が高まっています。≫

 当たり前にあった他者との交流が、コロナ禍以降、難しくなりました。その結果、人はつながりがなくては生きていけないのだとみんなが気付かされました。そもそも利他とは、意図して行うものではないと私は考えています。たとえばちょっとした心配り。あるいは当たり前にある「常識」もそうです。

 なぜ私たちが常識を持つのかといえば、社会の中で1人で生きることは不可能だからです。みんなで少しずつ他人のことを考えながら生きる。その英知の結晶が常識だと思うんです。

 つまり利他とは、「他の人に良いことをしよう」という性質のものではない。他者と生きる上で自然に私たちが持っている存在のありようだと考えます。みんな普通に生きていれば利他的だと思うんです。

 ≪―それなのに利己的な言動が生じるのはなぜでしょう。≫

 私たちが人よりも良く見られたいとか、優れた人間でありたいといったような考え方をすると、利己的になっていきます。普通に生きていれば人は利他的なんだけれども、自分だけ何か特別なことをしようと考えると利己的になる。

 現代社会では、利己的であることを後押しした部分があるんです。幼いころから「もっとあなたは優れた人でいなさい」などと言われて育ってきました。だが、コロナ禍となり、どうにかして苦境を乗り越えようと互いに励まし合うようになった。本当の社会とは他者と助け合わずにはいられないものだということをみんなが認識したわけです。

 ≪―利他の教えを具体的にどのように取り込めば良いのでしょう。≫

 ねぎらいや励まし、いたわり…。私たちがどちらかというと苦しい状況にあるときに支え合うような言動が挙げられます。コロナ禍を経て、私たちの間で根付きつつあります。これが生活の中でもっと深く位置付いてくれれば。

 たとえば私の母は新潟に暮らしていますが、以前はそんなにこちらから電話もしていませんでした。電話がくれば出るけれど。コロナ禍になってからの方が頻繁に連絡するようになったんです。母が元気で生きていることは当たり前ではないと突きつけられたからです。

 実は母はずっと以前から私のことを心配して顔を見たいと考えてくれていたと思うんですが、私にはよく分かっていなかった。コロナ禍を経て、そうした母の利他の精神に気付き、私の方も実践できるようになったわけです。

 ≪―コロナ禍が続く中、利他は日々の営みの中で引き続き指針になってくれそうですね。≫

 生きづらい世の中といわれます。コロナが収束したからと言って危機が終わるとは思えません。私は「ポストコロナ」という言葉を使う人を信用しません。コロナは社会の危機を露呈しただけです。収束したからと言ってその危機が終わるわけではありません。

 コロナが終わったら差別が終わるのか。コロナが終わったら苦しみがなくなるのか。そんなことはありません。コロナは私たちが隠していたものを露見させただけで、新しく危機がつくり出されたわけではないんです。すでにあったものが表出したに過ぎません。

 私はコロナ禍が終わったら、また苦しい人たちが社会の視界から外れていくんじゃないかと危惧しています。本当の危機が見えなくなっていくことの恐ろしさを考えていかなくてはいけません。そこで支えになってくれるのが「利他」の教えだと思っています。

「自分の救済が2番目」

 ≪―仏法にスポットが当たるのも興味深いです。≫

 日本では平安期、天台宗を開いた最澄と真言宗開祖の空海が使い始めた言葉です。それまでの仏教は個人の修行を追求したものでしたが、最澄と空海は唐への留学を経て、多くの人を救おうとする大乗仏教を日本に移入しました。大乗仏教化する上では、利他の考え方を抜きにしてはあり得なかったのでしょう。

 空海は「仏教の教えとは自利と利他の二つに尽きる」と言っています。最澄はより極端で「自分で苦しみを受けて喜びは他の人に」と考えました。「忘己利他」の言葉は広く知られています。

 ≪―日本の大乗仏教の原点にあるのですね。≫

 大乗仏教の大事な部分は、自分の救済が2番目になることです。他者の苦しみを引き受けることこそが大切な道である。自分が救われたいと考えるのはもちろん悪いことではないけれど、自分が1番目になっているうちは利他は実現しません。

 利他の言葉は1200年以上前から受け継がれたものです。それだけの歴史があるからこそ、きっと私たちが意識しようとしまいと、当たり前に存在しているものだと思うんです。

原民喜作品にみる「究極」

 被爆作家の原民喜(1905~51年)に深く傾倒し、たびたびエッセーにつづっている若松さん。ツイッターでは「夏の花」と利他を絡めて取り上げたこともある。

 初めて原さんの作品を読んだのは慶応大の学生だった10代の終わり頃でした。古書店で「鎮魂歌」に出合いました。

 45歳の若さで自死した原さん。代表作の「夏の花」が書かれることがなければ、彼はもしかしたらもっと早くこの世を去っていたかもしれません。

 けれど彼は広島で被爆してあの悲惨な現実を見た。「これを書かずに自分は世を去ることはできない」との思いで作品を書いたわけです。究極の利他だと思っています。

 ≪―究極とまで評価する理由を教えてください。≫

 彼の紡いだ文章は、原爆で亡くなった人たちが語れずにいたものを引き受けています。語らざる者たちの沈黙を引き受け、そこに作品全体で応答して読み手にきちんと伝える。人間は誰か他の人の言葉の「器」になることができるのだと教えてくれます。

 原さんが実践したのは、生きている人だけのためではなく、亡くなった人たちにも向けられた利他です。原さんにとっての他者とは亡くなった人も含んでいる。人間とはそうでなくてはならないものだと思わされます。

 ≪―理不尽に命を奪われた人の思いを継ぐために尽くしたわけですね。≫

 今を生きている人が大事なのは言うまでもありません。だけど私たちはいつもどこかで、亡くなった人たちを含んだ利他ということを考えていかなくちゃいけない。原さんはとても大事な道しるべになってくれるんじゃないかなと思います。

 文学とは自分の心の中のものを表現したものであると多くの人は思うかもしれないけれど、原さんがやろうとしたことはそうじゃないんです。その結晶が今も読み継がれているんです。

大学プロジェクト「社会に一石」

 「利他」の教えは、コロナ禍以前にもビジネス界などを中心に注目を集めていた。東京工業大の研究者でつくる「未来の人類研究センター」は、2020年2月の発足時から「利他プロジェクト」と銘打った取り組みを続けている。

 メンバー6人が「芸術」や「科学史」などそれぞれの専門分野をベースに利他を研究している。気付きなどをつづったエッセーをプロジェクトのホームページ(HP)に掲載。年1回オンラインのトークイベントも開き、成果を幅広く公開している。若松さんもことし3月に同大教授を退任するまではプロジェクトのメンバーだった。

 伊藤亜紗センター長は、利他をテーマとした理由について「生産性だけで人を評価しがちな社会に一石を投じることができる」としている。

 若松さんはことし5月、「はじめての利他学」を刊行した。利他的な生き方を実践した歴史上の人物の足跡などを紹介している。(NHK出版、737円)

わかまつ・えいすけ

 1968年新潟県生まれ。慶応大文学部卒。会社員などを経て批評家や随筆家、詩人として幅広く活動する。2013~15年には文芸誌「三田文学」の編集長を務めた。著書に「悲しみの秘義」「いのちの巡礼者 教皇フランシスコの祈り」など。詩集「見えない涙」で詩歌文学館賞。

(2022年8月29日朝刊掲載)

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