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[考 fromヒロシマ] 生田美智子・大阪大名誉教授が意義語る 女性のシベリア抑留に光

懐かしむ手記も 浮かぶ多様な側面

 77年前の1945年8月23日、旧ソ連の最高指導者スターリンによる秘密指令で始まったシベリア抑留。旧満州(中国東北部)から旧ソ連地域に送られた60万近い人の中には、若い女性も含まれていた。その実態が、近年の研究で少しずつ明らかになっている。ロシアの公文書などに当たり、このほど「満洲からシベリア抑留へ 女性たちの日ソ戦争」(人文書院)をまとめた生田美智子・大阪大名誉教授と、女性の抑留に光を当てる意義を考えた。(森田裕美)

 抑留された人は、厚生労働省の推計で約57万5千人。そのうち約5万5千人が飢えや寒さ、病気などで死亡したとされる。だが敗戦から77年を過ぎた今も実際に何人が抑留され何人が亡くなったのか、その数さえ明らかになっていない。

 抑留者の中に従軍看護師ら女性がいたことは、体験者の証言や手記などでかねて一部には知られていたものの、詳細は男性の抑留以上に分かっていない。

 日本とロシアの交流史が専門の生田さんは8年ほど前、抑留を経験した旧満州の元看護師と出会ったのを機に、関係者らへの聞き取りを始めた。元軍医や看護師らによる親睦会の会報などにも当たった。証言や手記の記述の裏付けを取るため、収容所跡の残るロシアや中国東北部にも出掛け、調査を続けてきた。

 2018年、生田さんはモスクワのロシア国立軍事公文書館で女性抑留者の名簿を発見。それまでに調査してきた女性の名前を初めて公的資料に認めることができた。

 手記や証言は個々の体験を明らかにしていく上で重要な一方、「語りたいことや語れることしか語られない」と生田さん。語られない事実も含め、解明するには調書や名簿など公文書が不可欠だ。この名簿により、女性抑留者の「集団としての動き」を詳細に確認するに至ったという。

 名簿に記されていたのは、旧ソ連と国境を接する佳木斯(ジャムス)の第一陸軍病院の看護師たち。陸軍が雇用した看護師、日赤岡山支部や広島支部から派遣された看護師、地元女学校の生徒たちを短期間の訓練で急きょ育成した看護見習い生もおり、半数以上は10~20代前半とみられる。

 女性たちは当初、薪集めやジャガイモの運搬などをさせられていた。しかし抑留初年の冬、寒さや飢えで多数の男性抑留者が死亡。旧ソ連は労働力維持のため、医療や衛生対策に経験を持つ抑留者を動員した。看護師や見習いの女性も、各地の収容所の医務室や特別病院へ分散させられた。

 彼女らが残した手記などからは敗戦後の過酷な状況が浮かび上がる。ソ連兵からの性暴力におびえる日々。万一の時には自決を強要された一方、「性接待」の要求があれば応じるようにも通達されたという。

 抑留されてからは栄養失調や大けがで運び込まれる男性抑留者の看護に追われた。自らも感染症にかかり倒れるケースもあった。

 他方で「つらい想い出はありません」と懐かしむ記述が手記に残るなど、抑留に対する女性の受け止めは男性とは異なっている。看護師たちは医療行為を通じて、ある程度自らの創意工夫で抑留者の苦しみの軽減に貢献することができた。「敵側」だったソ連人とはいえ命を守る立場では共通点のある医師や看護師と交流したことも影響しているのだろう。

 女性たちを追うことで「極寒、重労働、飢え」といった「三重苦」でステレオタイプに語られてきたシベリア抑留の多様な姿が見えてくる。生田さんは「抑留は男性の問題という認識にも見直しを迫ることになる」とも語る。確かにこうした断片を合わせれば、いまだ全体像が見えないシベリア抑留が立体的に見えてくる。

 それにしてもなぜこれまで、社会的にも学問的にも女性抑留者たちの存在に目が向けられてこなかったのか。

 生田さんはいくつかの理由を挙げる。まず女性抑留者は圧倒的に数が少ないこと。敗戦後の日本社会では、男性抑留者の「三重苦」の体験の方が共感を集めやすかったこと。また女性抑留者自身が口を閉ざしたこと…。

 生田さんは「女性の場合、抑留の本当の苦しみは、ソ連抑留中よりも日本への引き揚げ後の方が大きかった」と見る。「社会主義に目覚めた女」との予断や「ソ連兵に何かされたのでは」といった偏見がついて回ったからである。そのため故郷の家族の元に帰れなかったケースもあるという。

 旧満州には、1945年8月時点で、日本統治下の朝鮮半島出身者を含む200万人以上の日本国民が居住していたといわれる。生田さんは「満州にいた敗戦国の女性たちが、植民地支配のつけを支払わされたことにも目を向けなくてはならない」と指摘する。抑留された人の中には旧日本軍に徴用された朝鮮人がいたことも忘れてはなるまい。

 国際法に反し、捕虜を不当に抑留した旧ソ連の責任は免れない。しかし女性たちが体験した「シベリア抑留」に迫ることは、抑留の多様な側面を浮かび上がらせ、植民地支配や戦後の日本社会をも問うことにつながるのではなかろうか。

シベリア抑留
 1945年8月、旧満州(中国東北部)へ侵攻した旧ソ連は、日本が無条件降伏のポツダム宣言を受諾した後に日本兵や民間人を拘束するとともに、シベリアなど国内各地やモンゴルの強制労働収容所へ移送。鉄道や道路建設、森林伐採、農作業、工場作業などさまざまな労働を課した。抑留期間が10年以上の人もいた。

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シベリア抑留を巡る主な動き

1945年 8月 8日にソ連が対日宣戦布告。15日、昭和天皇
         「終戦の詔書」をラジオ放送。23日、ソ連の
         最高指導者スターリンが日本軍捕虜のシベリア
         移送を極秘指令
  51年 9月 サンフランシスコ平和条約調印
  53年 3月 スターリン死去
  56年10月 日本とソ連が戦争状態の終結とシベリア抑留者
         全員帰還などを約束した日ソ共同宣言調印、国
         交回復
     12月 ソ連から最後の引き揚げ船が舞鶴(京都)に入
         港。長期抑留者帰還
  91年 4月 ソ連のゴルバチョフ大統領が抑留死亡者名簿を
         携え、来日。日ソ捕虜・収容所協定調印
  93年10月 ロシアのエリツィン大統領がシベリア抑留につ
         いて謝罪の意を表明
2010年 6月 元抑留者に一時金を支給するシベリア特別措置
         法制定

(2022年8月29日朝刊掲載)

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