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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <2> 料亭の娘

客は海軍 豊かな暮らし

  ≪1934年、父中本正数さん、母春香さんの長女として広島県大柿町(現江田島市)で生まれた。妹1人、弟3人の5人きょうだいの長女だった≫

 祖父母に子どもがなくて母は幼い頃、祖父の弟の元から養女に来たそうです。父は婿養子。先に家に来たのは母だから、母のほうが強くてもおかしくないんだけど、父は亭主関白で母が逆らうことはなかったね。

 忠子(ちかこ)の名前は、遠縁で元衆院議長の灘尾弘吉が古事記から名付けたと聞いた。父の兄平塩五男は、後に灘尾の地盤を引き継いで県議になった。子どもの頃から政治が身近だったけんかね、今も政治に興味があるんよ。

 ≪3歳の頃、父母が呉市中心部で料亭兼仕出店「一力(いちりき)」を始めた≫

 海軍御用達の店で、まあにぎやかじゃったんよ。従業員がたくさんいてね。事務所には壁一面、予約の日や時間を書いた紙が張ってあった。店には日中に三味線が届き、夕方になると人力車で芸妓(げいこ)が来る。父は三味線の番号を見て、その日お座敷に出る芸妓のものと間違いないかどうか確かめとったね。母はといえば、全くのお嬢さんで何もしなかった。店の奥で私らと百人一首やかるたで遊んどったよ。

 海軍指定の店じゃけん食べ物は豊富だった。だって「明日死にに行こう」という人が来るところよ。私も戦時中はぜいたくに育てられとったかもしれんね。幼い頃、父に洋服屋に連れて行ってもらって、好きな服を買ってもらったり、子守専属の雇い人がいたりしたのを覚えとるよ。

 小学校は五番町尋常小に入学した。算数と体育が得意じゃったね。珠算が好きで習いに行ったり、先生に来てもらったり。この年になっても計算ができるのは、このおかげじゃないかね。

 ≪夏休みや冬休みには大柿町の祖母の元で過ごした≫

 ラムネ工場を経営していた祖母は、長崎出身の働き者でお酒もよく飲む人。とにかく朝起きて歯磨きしたら、四斗だるの酒を升で5合くらいじゃったかな、ぐぐーっと飲んどった。それから神棚に手を合わせて仕事に入る。すごく豪快で世話好きな人じゃったね。

(2022年8月31日朝刊掲載)

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