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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <3> 被爆の街を歩く

11歳、伯父を捜して入市

  ≪昭和20年8月6日、祖母が住む広島県大柿町(現江田島市)からきのこ雲を見た≫

 母の実兄の登が県警に勤めていて広島市内にいました。2日後、11歳の私が一家を代表して捜しに行くことになった。もう1人、二つ上の親戚の男の子と一緒に両肩から水筒をかけてね。船で向かったんだけど、真っすぐ進まないほど海にはいっぱい死体が浮かんどった。周りの大人に「見ちゃいけん」って言われるんだけどつい見てしまう。一番多かったのが似島沖だったのを鮮明に覚えとる。

 広島の街は、何ともいえん臭いでね。伯父を捜し歩きました。それで、どこだったか記憶にないんだけど収容先で見つけたの。すでに息はなく、顔を見ただけでは分からんかった。でも手には短剣を握りしめていてね、その剣に名前が刻んであったから伯父だと分かった。勤務中に広島市役所で被爆したそうです。

 ≪1945年、国民学校6年生で終戦を迎えた≫

 呉でも空襲が激しくなって防空頭巾をかぶって、よく防空壕(ごう)に走った。両親の料亭は飛び散った焼夷(しょうい)弾で一部が焼けて商売ができんようになって。祖母の住む大柿町に引き揚げた。

 亡くなった伯父には私と同年代の男の子が3人おってね。戦後、両親がその子たちを引き取ったの。母は8月9日に末の弟を産んでいたからすでに5人の子がいました。その中で実の子と同じように育てて2人を大学まで行かせた。父も母もえらかったと思うよ。

 ≪広島市内に伯父を捜しに行った影響からか、断続的に体調不良に苦しむことになる≫

 あの頃は、原子爆弾の後遺症がどんなのかなんて、知らんじゃない。私を広島に行かすんじゃなかったって、後になってすごく父が自分を責めたような感じじゃったよ。

 一緒に行った人はみんな原爆手帳をもらったけど、私はもらってない。父は「原爆におうたと言うと嫁の取り手がおらんようになる」って隠したがった。私にも絶対人に言うちゃあいけんって。一緒に行った人が当時のことを話す時は、私を話の輪に入らせんようにしよったよ。

(2022年9月1日朝刊掲載)

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