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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <4> 病弱な体

高跳びに励んだ女学校

  ≪戦後は呉市の精華高等女学校(現清水ケ丘高)、専門学校の呉女子文化学院で学んだ≫

 父は勉強しなさいとは一言も言わない。とにかく、人に迷惑を掛けないようにということだけを願っていたようです。妹や弟もそう教育されていましたね。精華には、走り高跳び選手の山内リエさん(元日本記録保持者で一時在学)がかつて通っていて、彼女に憧れて入った。母の母校だったというのもあるんです。母の年代で女学校を卒業したのは島で1人だったそうです。

 女学校では高跳びに励んだ。お尻に肉がついたら駄目と言われ、お尻の上で麺棒を転がす「肉落とし」をたこができるほどした。今もお尻が小さくて足が細いでしょう。

 文化学院では、料理や裁縫、自分の好む学科を勉強した。私の場合、ほとんど料理でした。食糧難でサツマイモを使うことが多かったね。茎も使って。今でも作るんだけど、わりとこれが今の若い人に受けるんよね。まあ、苦しい時代をよう乗り越えたことよって自分でも思うよ。

 ≪呉の料亭を畳んだ父は1948年、瓦工場を始めた≫

 建築ブームに乗って、10年くらい後にブロック製造もやりだした。弟やその息子たちが会社を大きくして今も切り盛りしてくれとるよ。父が工場を始めた頃、祖母が近くの紡績工場で売店を開いたの。私も学生時代からよく手伝った。

 ≪中学生時代から胆のう、虫垂炎、甲状腺と患い、長く体調不良に悩まされる≫

 病気はずいぶん続いたよ。ずっと調子が悪かったの。甲状腺にしこりができることもあった。学生の頃は、病気に打ち勝つようにと思って運動に取り組んだんです。でも、その後も入退院を重ねて。手術を繰り返しとるけん、温泉に行って服を脱いだらみんなが「まあどうしたん」って驚くほど傷だらけ。昔のことじゃけん大きく切っとるし、縫い目の痕も目立つのよね。

 でも不思議なよね。こんなに病気をしたのに一緒に船で広島に行った人の中で、うち1人だけが長生きしとるの。昔、病院で先生に「消化の悪い物は食べんように」って言われてずっと守ってきたの。それがよかったのかもしれんね。

(2022年9月2日朝刊掲載)

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