[無言の証人] 布製かばん
22年9月5日
不明の遺骨代わりに
あの日の朝、肩から斜め掛けにして家を出たのだろうか。帯布で作った32センチ四方のかばん。広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)1年生だった藤森敏子さん=当時(13)=がいつも身に着けていた。
1945年8月6日の朝、市女の1、2年生は現在の平和記念公園(広島市中区)の南側で建物疎開作業に動員されていた。娘を捜し出そうと、原爆が投下された直後から母カスミさんは市中心部へ向かった。
翌日、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の前で娘の級友を見つけた。藤森さんが元安川で材木にしがみつきながら「天皇陛下万歳」と口にしていた、と聞いた。カスミさんは、爆心地から約500メートルの木挽町(現中島町)で、崩れた寺の土塀の下からわが子のかばんを見つけた。
98歳で亡くなるまで、見つからない遺骨の代わりに保管していたという。「毎年8月6日になると、敏子のことを話しながら涙を流していました」。1歳で被爆した藤森さんの弟の俊希さん(78)=長野県茅野市=は語る。自らの記憶にない姉は「学童疎開をしていた他のきょうだいを心配して何度も手紙を送っていたと聞いています」。
かばんは2011年に遺族が原爆資料館(中区)に寄贈した。俊希さんは日本被団協の事務局次長として、姉たちの命を無差別に奪った核兵器の廃絶を訴え続けている。(湯浅梨奈)
(2022年9月5日朝刊掲載)