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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <5> 2度の結婚

死別、離別…喫茶店開く

  ≪19歳ごろ、父の営む建築資材会社に勤める3学年上の男性と結婚した≫

 青年消防団長をしていて、島では信頼のおける若者だった。私も学生時代から父の会社を手伝っとったからよく知ってました。祖母がその人を気に入って縁談をまとめたんよ。口数が少なくて、よく働く人だった。でも次男が生まれて間もなく、夫は心臓の病気で突然亡くなってね。人生うまくいかんもんだよね。

 しばらくして私は、友人から紹介された人と呉で再婚することになった。暮らしにゆとりがなく、子ども2人は両親に預け、育ててもらうことになったの。子どもたちは私の父母のことをお父ちゃん、お母ちゃんって呼んで育った。長男は大学に行かせてもらって、1級建築士の資格を取ったんです。その時はうれしくて、合格者の名前が発表された新聞をまとめ買いしましたよ。そして今も父の会社で働いています。

 再婚相手はいい男でおしゃべりが上手な人だった。すぐに子どもができたんだけど、もてる人で大酒飲み。私は酔っぱらった夫の酒の臭いが嫌いだったから、すぐに離婚しましたよ。

 ≪離婚後の1960年代後半、呉市の中通りでスナック喫茶を開業。1人で子どもを育てた≫

 店の名前は「メキシコ」。68年に開かれたメキシコオリンピックのメキシコから名前をもらったの。朝はシャッターを開ける前から行列ができるほどだった。人気は焼きめしやオムライス、親子丼とかの庶民の味。自衛隊員や警察官の客も多くてね、毎日満席になるほどたくさん来てくれて繁盛したのよ。

 ≪40歳ごろ再び体調が悪化。胃がんの摘出手術をした≫

 体調を崩すことは、それまでもちょくちょくあった。だから胃がんが見つかっても驚かなかった。でも手術の時には店のお客さんにも輸血の協力をしてもらって。みんなよくしてくれた。私にはいつも「明日、目が覚めるじゃろうか」という不安がつきまとっていたの。体がもうちょっと元気だったら商売を続けたと思うけど、ままならんのが人生じゃろう。店を閉めたの。

(2022年9月3日朝刊掲載)

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