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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <6> 基町に引っ越す

PTA感覚で保護司に

  ≪体調を崩してスナック喫茶「メキシコ」を畳んだ。1977年、広島で製氷業を営んでいた伯父を手伝うため広島市中区基町の高層アパートに転居する≫

 小学校卒業間近の三男善範を連れて引っ越したの。友人に誘われて基町アパートの入居を決めた。その後、友人はアパートから転居してしまった。だけど私はこういう性格じゃけん、自治会の役員も引き受けてここに居着いてしもうた。今では、このアパートで友人やいろんな人に恵まれたのが財産だと思う。

 ≪間もなく頼りにしていた伯父が亡くなり、商業ビルのサンモール(中区)に転職。三男は幟町中に進学した≫

 息子が1年の時にPTAの役員になった。中学校の様子も地域のことも、いろんな知識が身に付くと思ったんよ。でも息子が3年の時、学校がすごく荒れてね。それも少々の荒れ方じゃなかったね。教室の中に生徒が自転車で乗り込んで行くのよ。PTAの役員だからってしょっちゅう警察や学校から仕事場に電話があって私が呼び出されるの。親の代わりに警察に生徒を迎えに行くんよ。それを息子は冷ややかに見て「あいつらのことでごういらんでもいいじゃない」って言う。仕事場からは早く帰ってこいって言われるし、困ってた。

 仕事は総務の部署でクレーム対応がほとんどだった。客の家まで謝りに行ったこともある。若者が集う店じゃけん、やんちゃな子も来とった。私は店内の見回りもしたし、何でも屋じゃったね。

 でもね、そうやっていつも子どもたちに接しとるからか、ある日、なじみの警察官が「中本さん、あんた子どもの扱いが上手じゃ」って保護司になるよう勧めてきた。保護司が何をするのかもよく分からんかったけど、PTAの役員と同じようなことならやってみようと思ったんよ。

 ≪80年、保護司になる≫

 保護司になって初めて、罪を犯した人が自分の周りにこんなにおるんだと気付いてびっくりした。犯罪の陰には必ず被害者がおる。何がなんでも、被害者を出したくないと決めた。初めて担当したのは、万引をした14歳の男の子だったの。

(2022年9月6日朝刊掲載)

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