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連載・特集

『生きて』 NPO法人「食べて語ろう会」理事長 中本忠子さん(1934年~) <7> 食事の提供

「腹が減ったらシンナー」

 保護司になって最初に担当したのは万引した14歳の少年でした。まあ、本人より家族に苦労したん。アルコール依存症のお父さんが「お世話になります」って、私に果物をくれたんだけど盗んだ物だった。依存症って言葉もそれまで聞いたことがなかった。全く知らない世界に入ったなと思ったよ。

  ≪保護司を始めた頃、非行少年の間ではシンナーが乱用されていた≫

 次に担当した子も中学生だった。私の家に来ていた時にシンナーをやめるように言ったら「腹が減ったら吸いたくなる」って言う。それならと夕食をこしらえたけど、シンナーを吸った後で「欲しくない」って食べなかった。それからは、学校の帰りに吸わずに来るよう約束したの。そうすると、ご飯が食べられるようになってシンナーは要らんようになった。シンナーをやめると今度は万引をせんようになる。この変化は本当にうれしかったね。

 ≪1982年ごろ、子どもたちに食事の提供を始めた≫

 ご飯を食べて再犯がやむならば、と食事作りを続けました。食材を買うのは全部自腹で、給料も貯金もつぎ込んでね。でも同僚が協力してくれたし、江田島の同級生に無理を言って魚や米を送ってもらった。玉子丼やチャーハン、簡単な料理ばかりだけど食事は毎日のことでしょう。かなり大変だったねえ。

 担当した子が仲間も連れてくるから人数もだんだん増えてね。近所だけじゃなく安佐北区から歩いて来る子もおる。雨の日に歩いて帰すのはかわいそうで帰りのバス代を出すこともあった。米が底を突くと、腹を膨らませるために小麦粉で団子を作ってみそ汁に入れたん。後になって「あれが一番印象に残っとる。おいしかった」って言われるんよ。

 ≪食事作りをご近所さんも手伝ってくれるようになる≫

 しばらくして、アパートのご近所さんから「玄関に靴がいっぱいあるけど、何しよるん」って声を掛けられてね。それが、真上の部屋に住む田村美代子さん。そのうち冷蔵庫にあるものでおかずを作って持って来てくれるようになった。ありがたかったよ。子どもたちがシンナーを持ち込んだ時にもさっと処分してくれて、心強いの。田村さんとは今も一緒に活動しとるよ。

(2022年9月7日朝刊掲載)

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