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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第3部 飛躍のとき <3> 地域とともに

06%;font-weight:bold;">広島の若き才能育む

学校訪ね 生演奏届ける

 広島交響楽団はプロ化50年の歩みを通じ、地元広島から多彩な音楽家たちを育んできた。

 「今日のえんそうはとてもいいえんそうでした。(中略)ぼくもしょうらい指揮者になりたいと思っています」。1972年の「広響だより」に載った愛らしい投稿。「戸坂小5年のときの感想文。生意気だなあ」。指揮者で東京芸術大教授の山下一史さん(東京)は笑った。

 被爆者だった母の博子さん(2014年に87歳で死去)は、家のレコードでショパンのピアノ曲をよく流していた。そんな母に連れられ、山下さんは幼少期から広響の公演に通った。「僕は最前列の席で指揮者のまねをしていたらしい」。中学2年で単身上京、桐朋学園大でチェロと指揮を学んだ。

 ベルリン留学中の86年、巨匠カラヤンの代役に急きょ抜てきされ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーベン「第九」を指揮。一躍、脚光を浴びた。実はこの前年、カラヤンのアシスタントだった指揮者高関健さんが、広響の音楽監督に就任するために帰国。「高関さんがアシスタントの後任に僕を推薦してくれたことが、代役につながった」

 「自分のオーケストラとじっくり向き合いなさい」というカラヤンの教えを胸に、仙台フィルハーモニー管弦楽団などの地方オケと深い関係を築いてきた。「地元の人たちのオケへの愛情が素晴らしい演奏を生む。広響に客演するときも、それを背に感じる」

 2017年4月、第2バイオリンの首席として登場した人物に、広響ファンは驚いた。広島市東区出身で現在は読売日本交響楽団のコンサートマスターを務める長原幸太さん。広響の音楽総監督に就任した下野竜也さんのデビュー公演だった。熱い演奏で下野広響の船出を盛り上げた。

 長原さんは前年、親交のある下野さんに「僕の地元の広響をよろしく」と声を掛けた。すると「じゃあ、出演してよ」と誘われたという。日本を代表するオケのトップが広響のセカンドに座るという、通常はありえない光景がこうして実現した。

 長原さんの広響愛の原点は、広島学院中2年での初共演にさかのぼる。当時コンマスだった故小島秀夫さんをはじめ、「小さい頃から知っている顔がたくさん。身内のような感覚だった」。東京芸術大付属音楽高に進学し、3年のときに日本音楽コンクールで最年少優勝。同大1年のとき、広響の東京公演でソリストを任された。「将来の夢は広響の音楽監督。広島に育ったからこそ、郷土の音楽界に役立ちたい」

 中四国唯一のプロオーケストラである広響は、長年にわたり地域に音楽の種をまいてきた。

 「初めてのプロオケとの共演。うれしさと緊張でいっぱいだった」と、ピアニストの魚住恵さん=安佐南区。88年、22歳のときに「広島プロミシングコンサート」に出演。広響とラベルのピアノ協奏曲を奏でた。

 同コンサートは新人音楽家の登竜門として、83年度にスタート。広島市文化財団の主催で、広島ゆかりの新進音楽家から選抜された3~5人がソリストとして出演してきた。今年12月、40回を迎える。

 魚住さんはエリザベト音楽大の学生時代、プロミシングの舞台で弾く先輩の姿を見て、「自分もいつか」と夢を抱いた。現在は同大講師として学生を指導する。「プロオケが地元にあることは、学生にとって大きな励み」

 広響が2012年から取り組む「ふるさとシンフォニー」。広島県内各地で統廃合となる学校に出向き、校歌を生演奏する。これまで呉や尾道、廿日市などの9校を訪れた。

 19年3月、143年の歴史に終止符を打つ郷野小(安芸高田市)に、下野さんと楽団員60人がやって来た。体育館には全校児童と地域住民200人が詰めかけ、プロが奏でるベートーベン「運命」など5曲に聞き入った。

 児童の金管バンドとも共演。最後は校歌と童謡「ふるさと」を奏で、大合唱した。「母校の思い出が心に深く刻まれたと思う。子どもたちの表情は誇らしげだった」。元校長の藤田覚治さんは振り返る。(西村文、木原由維)

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(2022年9月8日朝刊掲載)

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