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連載・特集

プロ化50年 広響ものがたり 第3部 飛躍のとき <4> 支える

ファンの声援 楽団の力に

長年の努力で赤字解消

 2000年代、秋山和慶さんの音楽監督時代に大きな成長を遂げた広島交響楽団。ところが財政面に目を向けると、草創期から積み上がった累積赤字が1億9300万円(05年度)に膨らみ、大ピンチだった。それが今では累積黒字に転じた。その陰には、裏方の人々やファンたちの支えがあった。

 「赤字を垂れ流すオーケストラはいらない」。そんな声が県議会で出るほど風当たりは強かった。広島交響楽協会の前理事長金田幸三さん(廿日市市)は回顧する。中国電力の山口支社長や中電プラント社長を歴任。財務立て直し中だった09年に楽団のかじ取りを引き継いだ。「どうすれば黒字になるのか。暗中模索だった」

 海外公演は中断し、人件費も節減を進め、企業や個人を足しげく回って寄付を呼びかけた。こつこつと単年度の黒字を積み上げ、在任の8年間で累積赤字をほぼ解消した。「寄付を頂いて終わりではない」と金田さん。「素晴らしい演奏に感動し、楽団を支える参画意識を高めてもらうことが大事」と語る。毎年秋の定期演奏会を「広響を応援する日」と定め、行政や財界から大勢の観客を呼び入れる恒例イベントに育てた。

 原点は在任中、秋山さんの拠点の一つであるカナダ・バンクーバーを訪れた時の体験にあった。偶然乗ったタクシーの運転手が「昨晩のバンクーバー響の演奏は…」と熱く語る姿に感銘を受けた。「オーケストラを支えるファン層の厚さを実感した。広島もそうなれば」

 苦しい楽団運営にあって金田さんが「力になった」という私設団体がある。広島の女性を中心とした「ミュージック・パーティ」。05年、広島経済大名誉教授の上田みどりさん(広島市西区)が発起人となって誕生した。中区のホテルを会場に、広響の楽団員を招いてチャリティーコンサートを催す。コロナ禍前まで毎年開き、これまでに約1千万円を広響に寄付した。

 活動のモデルとなったのは、米国の市民組織だ。上田さんは1996年、ハーバード大の客員研究員として留学し、当時小澤征爾さんが音楽監督を務めていたボストン交響楽団と出合った。オケを財政、人材の両面で支えていたのは女性のボランティア組織だった。「パワフルで高潔な彼女たちの志に感化された」。広響サウンドを次世代に届けようと奮闘を続ける。

 市民楽団として出発した広響は一人一人の熱心なファンに支えられ、その歴史を刻んできた。98年にできたファンクラブ「広響フレンズ」は、初心者からコアなファンまで約400人を集めた。プロ化直後の73年から演奏を聴いてきた佐藤幸一さん(東区)は、仲間たちとボランティアで運営を担った。

 73年当時は20代半ば。お金をためては演奏会に行く生活だった。主には海外オケやNHK交響楽団の公演だったが、80年代に広響を聴き直すと「驚くほど良くなっていた」と一気にファンに。フレンズでは楽団員を囲んでの懇親会や日帰りの旅行、ファンクラブ通信の発行などに力を入れ、広響とファンの距離を近づけた。フレンズは2010年に解散。「若い世代に活動を担ってほしい」

 ドイツの作曲家ブラームスの行きつけだった食堂の名前にちなみ、「あかいはりねずみ」と名付けたカフェが南区にある。店内の壁には、広響の次回定演のチラシが。「一度、広響の公演に行ってみたいと話すお客さんは多いんですよ」と店主の水島早苗さん。世界中を旅した後、4年前に開店した。

 「人気曲だけではない、多様な作品に挑む姿勢が好き」。店の交流サイト(SNS)を通じ、楽団員とも新たな交流が生まれた。東京出身の夫も今ではすっかり広響ファンだ。「身近にオケがある広島の生活は楽しい。気楽にコンサートへ行こうよと伝えたい」 (西村文、木原由維)

広島交響楽協会

 広島交響楽団を運営する前身団体が1970年に設立。72年に社団法人、2011年に公益社団法人となった。現在の特別顧問は湯崎英彦・広島県知事と松井一実・広島市長、会長は池田晃治・広島銀行会長。22年度の予算は約7億5900万円で、県から1億2千万円、市から1億1千万円の補助金を得る。

(2022年9月9日朝刊掲載)

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