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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 戦争遺跡の現在地

保存論議に歴史観欠かせぬ

 8月に広島市内で開かれた戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会に参加した。失われていく戦災の爪痕や旧軍の遺構をどう残すか。2日間にわたり勉強させてもらった。

 1997年に発足し、36団体が加盟する「戦争遺跡保存全国ネットワーク」が毎年夏に開く。過去に長崎では開かれたが広島では25回目にして初めてだ。「広島で開くのは長年の悲願だった」。その言葉が、集まった人たちから何度も聞かれた。

 被爆建物の保存で蓄積のある広島を大会が素通りしてきたのは、受け皿として名乗りを上げる団体がなかったからだ。核兵器の惨禍を繰り返させまいと被爆建物を守る理念と、戦争の全体像を遺跡から問い直して不戦を誓う各地の運動―。微妙な距離感があったのかもしれない。

 全国ネットの旗揚げとして長野市であった97年の第1回シンポに足を運んだのを思い出す。第2次世界大戦末期の巨大地下壕(ごう)群、松代大本営跡に近い会場で熱く語られたのが前年の原爆ドーム世界遺産化の意味である。登録の前提として文化庁がドームを国史跡にしたことで、大戦期の遺跡や建造物を国の史跡・文化財にする道が開けたからだ。ただ彼らが「原点」と考える広島からの参加者はその後、少なかったようだ。

 確かに広島県内で戦争遺跡への関心は高まっていない。例えば大久野島(竹原市)。日露戦争に備えた要塞(ようさい)の島を毒ガス工場に転じた「二重の遺跡」であり、国史跡に値するはずなのに動きは停滞する。広島湾や呉湾一帯にある旧陸海軍の遺構も調査し、活用した例は少ない。災害で崩落して放置される場所もある。

 そうした中で広島大会を開く契機となった一つは旧陸軍被服支廠(ししょう)の保存問題という。若者たちも加わる解体反対の署名活動に全国ネットが協力し、新たな縁ができた。さらにはサッカースタジアムの建設に伴って出土した中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊の遺構撤去を巡る問題で、軍都広島の戦争遺跡としての歴史的価値が全国的にクローズアップされた。

 こうした報告を踏まえ、大会は広島城周辺の地下被爆遺構の総合調査や保存を求める決議をした。被爆地の足元に眠る戦争の記憶とどう向き合うかは、今後も重い課題となる。

 鍵となるのは文化財への指定だろう。戦争遺跡を指定する動きは各地で拡大し、全国ネットのまとめによると計342件。北海道、沖縄、鹿児島などで目立つ。文化庁も近現代の遺跡を文化遺産として考える大きな方向性は示すが、調査も含む判断は自治体任せで温度差が著しい。

 難しいのは戦争遺跡と言っても、国も認める公式定義がないことだ。明治以降を指すか、先の大戦期なのかも論点によって異なる。旧軍の施設で見れば近代化を伝えた文化財と捉える場合もあるし、軍事遺産として誇りたい人もいる。国の基準もさることながら地域の視点で戦争の意味を捉え直し、価値を考える歴史観が求められる。そして住民を交えた何を残すかの議論が欠かせない。

 その点が最近問われたのが出雲市の旧海軍大社基地跡である。遊休地だった広大な滑走路跡が国から民間に払い下げられ、宅地開発が進む。史跡にして保存するよう求めてきた民間の団体に対し、市は調査した上で遺構は残さない方針を示した。

 大戦末期、爆撃機の出撃拠点として造られたコンクリート敷きの一部が残る遺構の発掘説明会に今月、参加した。「調査は不十分」「戦争遺跡としての全体像を示して」などと参加者が次々発言し、目の前で発掘担当者と議論を始めたのに驚いた。市は周辺の関連遺構も含めて基地跡を総合調査し、平和学習に生かすと表明している。この段階で議論を尽くしておくのは無意味ではない。

 茨城県の航空隊跡地を文化観光拠点にするクラウドファンディング、3次元映像による地下壕調査…。広島大会で報告された先進例だ。それらには及ばずとも戦争遺跡の現在地に思いをはせる流れが、津々浦々に広がることを願う。

(2022年9月15日朝刊掲載)

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