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[ヒロシマの空白 証しを残す] 爆心直下の医師 研究で世界一周 遺品のパスポート 足跡残る

相撲や野球 私費で支援も

 米軍が投下した原爆の爆心直下となった広島市細工町(現中区大手町)で病院を営み、63歳で被爆死した医師の清茂基(せいしげもと)さんの遺品のパスポートなどが残っていた。医学研究で欧米各国を訪れ、広島のスポーツ振興にも尽力した。原爆資料館(中区)は16日に始める企画展で展示し、今は知る人の少ない生前の足跡を伝える。(編集委員・水川恭輔)

 清さんは東京帝国大医科大(現東京大医学部)で学び、1912年に細工町で泌尿器科や皮膚科などの清病院を開院。爆心地の島病院(現島内科医院)の斜め向かいにあった。戦時中も診療を続け、45年8月6日付中国新聞朝刊には「清病院 院長清茂基」と記された広告が載っている。

 しかし清病院はその日、爆心直下で猛烈な爆風、熱線を受けて全壊全焼。清さんは診察室跡で遺骨が見つかった。広島県立医学専門学校(現広島大医学部)1年だった長男九二三(くにぞう)さん=当時(18)=も犠牲になり、清病院は再起できなかった。

 草津町(現西区)に別宅があり、遺品のパスポートを孫の淳二さん(87)=大阪府箕面市=が保管。資料館が調べると、28年に太平洋を船で横断して米国を訪れ、英国やフランスにも立ち寄り旧ソ連経由で世界一周をしていた。医学研究などのためと記されている。

 パスポートのほか、東京大相撲協会(現日本相撲協会)が清さんに興行の入場料を免除する「免状」(25年1月9日付)も残っていた。清さんは大の相撲好きで、広島市内での相撲興行を支援し、開催時は関取が相次いで清さんを訪ねたという。野球も好きで、「新修広島市史」(58年刊)などによれば、今の西区に19年に開設された野球場「観音グラウンド」の建設を主導し、私費を投じた。十数段の木製の観客スタンドを持つ市内初の本格的施設で、当時の野球ファンから慕われたという。

 資料館は今月16日から細工町などに関する企画展を開く。準備中だった4月、本紙が清病院の被爆後の写真を巡り淳二さんを取材した際に遺品が残っていることが判明した。遺品の存在を知った資料館が淳二さんに企画展への遺品提供を依頼し、淳二さんが「祖父の供養になる」と快諾した。

 資料館の落葉裕信・主任学芸員は「細工町でどんな人が原爆の犠牲になったのかを知る上で貴重な資料。清病院は原爆で途絶え、清さんのことは現在あまり知られていないだけに展示で伝えたい」と話している。

(2022年9月15日朝刊掲載)

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