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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 塩冶節子さん―5歳が見た 凄惨な光景

塩冶節子(えんや・せつこ)さん(82)=広島市安佐南区

7年後に妹急死。子どもの犠牲語り続ける

 広島市安佐南区に暮らす塩冶節子さん(82)は5歳で被爆し、その後に親友や妹を失った体験を修学旅行生や平和学習をする子どもたちに伝えています。子どもの未来が戦争や核兵器で断たれることのないよう強く願うからです。

 原爆が投下された時、塩冶さんは爆心地から約1・6キロの段原町(現南区)の自宅で祖母と遊んでいました。朝の空襲(くうしゅう)警報が解除され、父親は坂(現広島県坂町)の職場へ。その日建物疎開(そかい)作業が休みだった母親は縁側(えんがわ)で新聞を読んでいました。

 その時です。天窓に光が見え、同時に天井(てんじょう)が崩れ落ちてきました。「覚えているのはただ真っ暗な闇」

 どれだけの時間が過ぎたでしょう。塩冶さんは母親が差し伸べた手につかまりがれきからはい出しました。玄関(げんかん)で靴箱の下敷(じ)きになった2歳の妹悦子(えつこ)さんも助け出されました。

 自分の家がやられたとばかり思っていましたが、外に出ると周りの家もありません。やがて火の手が迫ってきました。母と祖母、妹と比治山に逃げました。いったん大通りに出ると、近くの鶴見(つるみ)橋の方から焼けただれた人々が両手を前に上げ、ぞろぞろ歩いてきました。その凄惨(せいさん)な光景は今も忘れることができません。

 夕方、家族を捜(さが)しに戻った父親とも再会でき、塩冶さん一家は自宅の様子を見に戻りました。しかしそこには煙(けむり)がくすぶっているだけ。仕方なくまた比治山に戻りました。その日は登り口に沿った植え込みで野宿し、翌日はそばの多門院に泊まりました。家や家族を失った人でいっぱいでした。

 戦後は坂町にあった父の勤務先の社宅へ移り住みました。両親と祖母、妹、戦後生まれの弟2人にいとこも加えた8人暮らし。狭(せま)いながらも、そろって暮らせることを喜んでいました。しかし被爆の影は付きまといます。

 被爆から2年たった小学2年の冬。登校すると、親友の朝子ちゃんの急死を知らされました。「クレヨンみたいな血を吐(は)いて亡くなった」と級友たちが大騒(さわ)ぎをしていました。朝子ちゃんは爆心地から約1・2キロの鷹野(たかの)橋(現中区)で被爆していました。

 1952年、中学1年になった塩冶さんをまた悲しみが襲(おそ)います。体が大きく、走るのも速かった妹の悦子さんが、突然40度の熱を出し、翌日帰らぬ人となったのでした。あまりにあっけない死に、塩冶さんは土間に伏(ふ)して泣きました。

 原因が分からず、医師は「自家中毒」と診断(しんだん)しましたが、被爆の影響ではないかと疑念は晴れません。塩冶さんは「朝子ちゃんや悦ちゃんのような小さな子が戦争が終わってからも犠牲(ぎせい)になったことを知ってほしい」と力を込めます。

 大人になり、子育てしながら幼稚(ようち)園や特別支援(しえん)学校で教員として働きました。「原爆で子どもを奪(うば)われた親はどんなにかつらかったろうと気持ちが分かるようになりました」と塩冶さん。それでも「幼い時の記憶しかない自分に、被爆体験を語る資格はない」と長い間、家族にしか語ってきませんでした。

 人前で証言するようになったのは被爆60年が過ぎてから。被爆教職員の会で活動する先輩に「5歳児の目から見た原爆を語ることに意味がある」と言われたのがきっかけです。

 活動には孫の陸(りく)さん(12)と弦汰(げんた)さん(6)を連れて出かけることもあります。「差別を恐れ、口をつぐむ親も多い中、私の母はあの日何があったのか、幼い私に分かるよう話してくれた。だから私も受け継がなくては」。耳を傾(かたむ)ける子どもたちのまっすぐなまなざしに、塩冶さんは希望を感じています。(森田裕美)

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私たち10代の感想

「その後」の恐ろしさ知る

 被爆したのは5歳の時なのに、塩冶さんは当時のことをとても鮮明(せんめい)に覚えていました。それほど衝撃(しょうげき)的な光景だったからだと思います。被爆の瞬間だけでなく、塩冶さんがその後も原爆のせいで妹や友達を亡くしたつらい経験を想像し、戦争の恐(おそ)ろしさを実感することができました。二度と繰(く)り返されないよう、自分の思いとともに後世に伝えていきたいです。(高2中島優野)

当時の様子 思い浮かぶ

 5歳の視点から見た被爆当時の様子が、鮮明に思い浮かんできました。原爆が落とされてからの塩冶さんのたどった道のりがとても過酷(かこく)だったこともよく分かりました。印象に残ったのは、被爆した日の夕方に白いご飯のおにぎりが配給されとてもおいしかったと、塩冶さんが話していたことです。塩冶さんはこの時、生を実感できたのではないかと思いました。(中1川鍋岳)

 塩冶さんはお話の中で何度も「あの光景は忘れられない、脳裏に焼き付いている」という言葉を口にしていました。当時はまだ5歳だった塩冶さんでも忘れられないほど酷い光景を、当たり前のように見せる戦争が、改めて恐ろしいと感じました。歳月とともに、被爆者や戦争体験者が少なくなり、話をしてくれる方が戦争を体験した年齢も年々幼くなってきています。証言者の高齢化で、戦争や原爆について語り継いでいくことに危機感をおぼえます。この危機感を忘れず今後の活動を行い、今まで以上に周りに伝えていくという役割を果たしていきたいです。(高1山瀬ちひろ)

 お話をうかがって心に残ったのは、塩冶さんが「伝えたい」という思いを強く持っていたことです。原爆によって子どもたちが無残に亡くなっていく姿を覚えている塩冶さんは、それを思い出すたび、「このような悲劇は二度と繰り返してはいけないから、たくさんの人に伝えてほしい」というメッセージを感じるとおっしゃっていました。私たちは未来が平和であることを願い、そのためには、何があっても戦争はしてはいけないということを心に刻み、伝えていかなければいけないことを学びました。(中2川本芽花)

 塩冶さんの口からは「子ども」という言葉が何度も出てきました。特に火傷をした学生たちがゆったりと歩く姿が塩冶さんの脳裏に焼き付いていることが印象に残りました。自身も幼い頃に被爆し、幼かった友達や妹のことを思って若い世代に語り続けているということがとても伝わってきました。被爆したあの時代の子どもたちのことを思って、絶対に戦争をしてはいけないという塩冶さんの強い思いをより多くの人に共有し、共感してもらいたいです。(中2山代夏葵)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2022年9月20日朝刊掲載)

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