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連載・特集

マザー・テレサの生き方 思い出して 没後25年 現地で共に働いた司祭の片柳さん

すべての命は かけがえなく尊い

 インドのスラム街を拠点に貧しい人々の救済に生涯をささげたマザー・テレサが87歳で亡くなってから、今月で25年となった。晩年のマザー・テレサとともに現地で働いたカトリック宇部教会(宇部市)の主任司祭片柳弘史さん(51)に、彼女の言動から受け取った教訓や、心に残っている言葉を紹介してもらった。(山田祐)

  神父としての歩みの原点はマザー・テレサとの出会いだった。

 私が大学生の時、父が心筋梗塞で急死しました。ショックで勉強に手が付かず、以前から興味のあったキリスト教の本を読むようになりました。そして、22歳で洗礼を受けたのです。

 でも神の愛って一体何なのか、心の底から理解をすることはできていなかった。もっと知りたいと考えたときに心に浮かんだのが、幼いころから憧れていたマザー・テレサに会うことでした。

 卒業後、すぐにインドのコルカタにあるマザーの修道院を訪ねました。簡単に会えるとは考えていませんでしたが、マザーは思いがけず事務所前に出てきてくれました。そのときの驚きと喜びを今でもはっきり覚えています。マザーが建てた「死を待つ人の家」でしばらくボランティアをすることに決めました。

 1年余りの滞在中、人生に迷っていた私にマザーは何度も「あなたは神父になりなさい」と言ってくれました。日本からわざわざ会いに行った熱意をくんでくれたのかもしれません。その言葉に導かれるように、帰国してから神父への道を歩むことになります。

 道ばたで苦しんでいる人に出会うたびに手を差し伸べ続けたマザー・テレサ。1979年にはノーベル平和賞が贈られた。

 私は今、幼稚園の講師や刑務所の教誨(きょうかい)師も務めています。キリスト教徒ではない人と接するときでも、「すべての命はかけがえのない尊いもの」という価値観を共有したいといつも考えています。それは87歳で亡くなるまで、約50年にわたってスラム街で奉仕活動を続けたマザーから教わったものです。

 マザーの地道な取り組みは世界中の人々の心を打ち、活動の輪は広がっていきました。亡くなったときには世界中の国からお悔やみの言葉が届きました。

 カトリック教会の「聖人」に認定されたのは2016年のこと。フランシスコ教皇は「苦しみの中に放っておかれていい人など誰もいない。それを思い出させてくれた」とマザーをたたえています。

 自分本位な考え方が台頭する近年の風潮に危機感を感じている。

 たとえば若い人たちが手に取るような自己啓発本は、成功してみんなから、ちやほやされることをゴールにしたものばかりです。失敗しても自分のそばにいてくれる人が一人でもいてくれるのが本当の幸せだ―と考えるのがキリスト教で、近年台頭しているのは真逆の価値観です。

 国レベルでも同様の傾向を感じます。各国で自国第一主義が広がっています。戦後形成された国際協調の枠組みが忘れられたかのようです。本音としては「自分たちさえ良ければいい」という思いは当然ありますよね。だからこそ、そのような思想が非常に強い説得力を持って響いてしまいます。

 こんな時代だからこそ、マザーの生き方をいま一度思い出してもらいたいのです。目の前にいる人をただ助ける、人として当然の姿を世界に示し続けてくれました。目指さなくてはいけないのは、国籍も人種も宗教も関係なく、誰もが虐げられることのない世界です。亡くなって25年がたっても、マザーの生き方は私たちに一番大切なものを示し続けてくれていると思うんです。

片柳さんに聞く 心に留めたいマザー・テレサの三つの言葉

貧しい人の中にイエスを見なさい

 シスターやボランティアの前でいつも言っていました。この言葉の背景にあるのは、キリスト教の二つのおきてです。一つが「神を愛しなさい」、二つ目が「隣人を自分のように愛しなさい」です。

 二つ目が有名ですが、これはまず自分自身を愛することができなければ成り立ちません。自分を愛するのって難しいものです。どうしても失敗や欠点ばかりに目がいくものですから。

 そこで大切なのが、「神が私に与えてくださった命」だと気が付くことです。自分の命の神秘を知れば、他の人も同じく神秘的な命なのだと理解できるはずです。

 マザーは相手の存在の中に宿る神秘をイエスと表現していました。ぼろぼろの格好で施設に運ばれてきた人たちを見るマザーの目がいつも輝いていたのは、マザー自身が常に相手の中のイエスを見ていたからです。

小さなことに大きな愛を

 これもマザーの口癖の一つです。私たちはどうしても人からの評価や目に見える結果を求めてしまいがちだけれども、本当に大切なのは愛がこもっているかどうかです。

 たとえば「あの人はみんなが嫌がる掃除や洗濯を本当に丁寧にする」、あるいは「あの人が人の悪口を言うのを聞いたことがない」などといったことも当てはまるかもしれません。ちょっとした小さなことなんだけど、そこにたっぷりの愛がこもっていれば、決して消えることなく誰かの心に残り続けます。

 私自身、神父としての日常の中でふと、良くない思いにとらわれそうになることもあります。「こんな平凡な毎日を送っていいのだろうか。世界を変えるような大きなことをするべきではないのか」と。こうした「悪魔の誘惑」が生じたとき、必ず原点に立ち返らせてくれる言葉です。

世界で一番ひどい貧しさとは、自分が誰からも必要とされていないと感じること

 誰かに愛されたいというのは人間の一番根源的な欲求だと思います。この言葉はマザーのお母さんに由来します。

 マザーは「うちのお昼ご飯のときは、必ずご近所の知らない人が一緒に食べていた」と話していました。食べるものがない人たちをいつも招いていたそうです。近所の1人暮らしの高齢者のお見舞いにもマザーを連れて回っていたそうです。

 マザーがインドに渡った後、お母さんからの手紙の中に「一番つらいのは貧しさではなく、独りぼっちで放っておかれること」と書かれていました。お母さんの立派な生き方が、マザーの精神の土台となっていることがよく分かります。

かたやなぎ・ひろし
 1971年、埼玉県生まれ。慶応大法学部に在学中に洗礼を受ける。94年から95年にかけ、コルカタにあるマザー・テレサの施設でボランティアに従事した。帰国後に神父となり、2014年から現職。新著は「何を信じて生きるのか」(PHP研究所)。

(2022年9月19日朝刊掲載)

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