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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅳ <2> 朝鮮の近代 開国 日本と清の干渉強まる

 ソウルから西へ約50キロ。韓国・江華島の草芝鎮(チョ・ジジン)(砲台)は、日本軍艦と砲火を交わした江華島事件の現場である。事件後に日本はペリーさながらの砲艦外交を展開し、明治9(1876)年に朝鮮を開国させた。

 結んだ日朝修好条規に日本は「朝鮮国は自主の邦」と盛り込んだ。清の属国ではなく近代国家同士の外交関係をうたったつもりだったが、裏目に出る。対日警戒心を呼び覚まされた清は朝鮮への干渉を強めた。

 18年後に日清戦争を招く争いの種火は、東アジア特有の国家関係にさかのぼる。古来、朝鮮半島の君主は中華帝国皇帝に朝貢して君臣関係を結ぶ冊封(さくほう)体制下にあった。

 一方、白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた後に、倭国(わこく)は日本を名乗る。天皇称号もこの頃成立したとみられる。中国に従属しない小帝国日本は朝鮮の冊封を試みるたびに、あつれきが生まれた。それを棚上げした江戸期は日朝の交隣関係が続いたが、明治維新で危機を迎える。

 王政復古を告げる日本からの文書に「皇」の字があった。中国皇帝しか使えない字は対等な関係を損なうとして朝鮮は受け取りを拒む。その態度を許せないとして、今度は日本国内で征韓論が広がった。

 日本人に植え付けられた朝鮮支配の記憶の影響もあろう。朝鮮半島に攻め入った倭国の歴史にちなんだ伝承である神功皇后の「三韓征伐」が「日本書紀」で定着。明治になっても実話として信じられていた。

 開国後の朝鮮では、王妃一族の閔(ミン)氏政権が開化政策を採り、攘夷(じょうい)派が反発を強める。対日貿易による経済変動が民衆生活を直撃する中、攘夷派が絡む暴動がソウルで起きた。日本公使館も攻撃され、花房義質(よしもと)公使らが帰国した明治15(1882)年の壬午(じんご)事変である。

 清は軍勢を急派した。攘夷派黒幕で国王実父の大院君を拉致する介入を行う。朝鮮を属国扱いする清との開戦を日本政府が覚悟する局面もあったが、朝鮮の謝罪で収拾した。

 草芝鎮は今、歴史教育の場である。途切れなく訪れる韓国の人々が向き合うのは、幕開けと同時に日清間の争いに巻き込まれた自国の短過ぎた近代である。(山城滋)

壬午事変
 明治15年7月、旧軍の暴動に民衆が加わり、政権高官らを襲撃。日本人も殺害された。清の指示を受けて朝鮮政府は事変後、日本への賠償や謝罪使の派遣、公使館保護の日本軍駐留などを認めた。

(2022年9月21日朝刊掲載)

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